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すべての今に感謝する

kitasendo
温泉

おばあちやんをデイサービスに送り出し、いくつかの用事をすませたあと、久しぶりに温泉に行つた。

着いたときはかなり激しい土砂降りで、入浴客もまばら。ゆつくりと落ち着いてお湯につかれる。

この温泉は露天風呂が気に入つてゐます。何の成分か聞いたことがないが、うつすらと青く濁つたお湯につかつてゐると、何とも言へず気分が落ち着いてくるのです。

露天風呂には簾のやうなものが頭上に張つてあるが、端からぽたぽたと雨だれが落ちては飛び散る。首までお湯につかつてぢつと目を瞑つてゐると、不意に一つの質問が湧いてくる。

あなたの理想は何ですか?

誰からともなく突然さう訊かれて、直ぐには答へが出てこない。

しばらくぢつと思ひを巡らしてゐると、
今に感謝することだ
といふ答へが浮かんでくる。

今と言ふのは、どの今だらう? さう頭の中で考へる。

すると、
「瞬間瞬間が、すべて今だらう。だから、すべての今に感謝することだ

すべての今…

「神が私に与へるものの中で、今より良いものが何か他にあるだらうか?」

さう言へば、先日読んだ『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ)に、神のこんなセリフがあつたのを思ひ出す。

今(present)は神からの最高の贈り物(present)だ


英語の成り立ちには面白いところがあります。なぜ「今」と「贈り物」が同じ言葉なのだらう。

「present」は「pre」と「sent」に分解できる。「pre」は「予め、前もつて」といふ接頭語であり、「sent」は「send」の過去分詞形で「送られた」といふ意味になる。すると「present」とは「すでに(神から私に)送られたもの」といふことになります。

「今」はまさにこの瞬間、私の目の前にあるもののやうに見えるけれども、実は前もつて神から送られたものなのだ。さういふ含意を読み取れます。だから私は前もつて神から送られた「今」をつねに生きてゐる。

しかもそれは、神からの贈り物でもある。「今」は謂はば、私への神の祝福なのです。

次の瞬間にどんな「今」が送られてくるか。それは私には分からない。「今」にならないと「今」は私の眼前に現れない。しかもその「今」は私が作り出すものではなく、神からの贈り物として現れるのです。

私はこれまでそんなふうに思つて「今」を生きてきただらうか。おばあちやんの介護で溜まつた疲れを解放しようといふつもりで温泉といふアイデアが浮かんだやうに思つてゐたが、どうも実は貴重な「今」を体験するために我知らず足が向いたもののやうです。

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Admin:kitasendo