2人の女性を看取る
今から24年前、妻のガンが分かり、それから約2年8ヵ月間、看病が続いた。そして今、今度は母の看護が続いてゐる。母の余命も長くはないから、生涯で2人の女性の最期を看取ることになりさうです。
2人の女性を看取る。これは私に課せられた人生の課題とでもいふものだらうか。最近ときどき、そんなふうに考へることがあります。
母の介護が本格的に始まつて、およそ1年8ヶ月。あと1年続けば、妻の看病と同じになる。しかし、妻のときと今とで、私の気持ちは同じではない。何が違ふのだらうかと思ふ。
▶妻の看取り
妻のときは、「死」を考へるのが怖かつた。妻はまだ30代の後半であり、2人の子どもたちはまだ幼かつた。死ぬにはまだあまりに早すぎる。
必ず回復して、もつと生きてほしいといふ一心だつた。そのために、いろいろな治療を、代替医療と呼ばれるものも含めて、試みた。
息を引き取る10日くらゐ前でさへ新しい治療法を見つけて、それを試してみようと本気で考へてゐた。そのときの妻はすでに立つて歩くこともまゝならない状態であるにも拘らず、私は希望を捨ててゐなかつた。
といふより、本当は「死」に目を向けたくなかつたのかも知れない。多分妻自身は自分の死期が近いことを感じてゐたのだらうと思ふ。私は妻の運命を正面から見て、妻の最期をどのやうに2人で迎へるか、冷静に考へることができなかつたといふのが真実に近い。
日に日に弱つていく妻を見ながら、可哀さうに感じるのはもちろんだが、しばしば内心腹が立つこともあつた。
「どうしてもつと、回復することに前向きにならないのか」
と口に出して言ふことはなかつたものの、心の内では妻の姿勢が私には物足りなく感じられたのです。
朧げな記憶をたどると、妻は自分の胸の内を、多くは語らなかつたやうな気がする。私と妻とでは、気持ちがどこかすれ違つてゐたかも知れない。
妻からすれば、回復するほうにだけ目を向けないで、今の自分に目を向けてほしいと願つてゐたかも知れない。今の自分の苦しさを和らげ、今の心を満たしてくれる夫の言葉を欲してゐたかも知れない。
▶母の介護
それに対して、今の母の死は、私にとつて恐怖ではない。
91歳を過ぎて、これ以上の余命を無闇に願ふ気持ちは母自身にも私にもない。むしろ、視力を失ひ、認知症も進み、立つて歩くこともできない体を抱へて生きていくのは辛いばかりだと思ふ。
母自身も
「役立たずのばあさんが生きてゐても迷惑だけど、まだ死にたくはないからね」
とも言ひながら、別のときには
「もうそろそろ、あの世に逝つてもいゝね」
と言ふこともある。
いつ死期を迎へるか。それは人知の与り知らぬこと。どうせ遠いことではないが、いつ来てもいゝ。私もそんな気持ちです。
認知症の初期には、腹の立つことも多かつた。同じことを何十回も繰り返し聞いてくる。必要のない電灯を点けて回る。食べきれないほどの味噌汁を作る。
あまりのことに思はず大声を出すと、母もショックを受けて泣き出すことも一再ではなかつた。
しかし認知症が進み、体力も衰えてくると、癇癪の種になるやうなこと自体ができなくなる。おとなしくなつて、食事の世話、下の世話をすると、「ありがたう、ありがたう」と言ふことが多くなる。
昼間でも夜中でも突然大きな声を出して、
「暗くて誰も見えないから、さみしい」
と嘆じることがある。
さういふとき、顔をくつ付けて耳元で
「大丈夫。こゝに息子がおるよ」
と言つてやると、少しは気持ちがおさまつて涙を流したりする。
こんなやり取りは、いくら親子でも、母が若い頃にはできないことだつたし、やりたいとも思はなかつた。母が歳を取り、認知症になつたからこそできるスキンシップだと思ふ。
尤も、歳を取つたのは母だけではない。私も歳を取つたのです。妻のときは40代、母のときは60代です。私の中で、やはり何かが変はつたやうな気はする。
今の私なら、妻の様子にあれほど腹を立てなかつただらうか。もう少し献身的に世話をしてやれただらうか。そんなふうにも考えてみる。
2人の女性を相手に下座(げざ)の行、と言へばおこがましいが、女性の前に膝を屈して世話をする。さういふ5年6年の期間が私には必要であり、私の内的な宝にもなり得る。
毎日、ルーティンのやうに繰り返す母の世話。その1日1日が、今の私には貴重な体験のやうに感じられるのです。

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