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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

見えないほうが、より近い

2021/11/05
永遠に生きる 0
チョコレート

目に見えないほうが、より近い
と話す男性の話を聞いて、私には明瞭な実感はないものの、さうかも知れないなといふ気がした。

その男性は初老に差しかゝつており、少し前に、長年連れ添つた奥さんに先立たれた。奥さんは亡くなることで、謂はば「目に見えない人」になつたのです。

配偶者が先に逝けば、程度の差はあれ喪失感がある。見ることもできない。話すこともできない。一緒にご飯を食べることも買ひ物に行くこともできない。

生きてゐたときにはできた多くのことが一緒にできなくなる。普通に考へれば、見えなくなると、それまでよりも遠くなるやうな気がします。しかし、実は逆だといふのです。

ふだんは見えないのだけれども、ときどき、ふと、すぐそばにゐるやうな感じがするときがある。

その男性はこんな体験をした。

自分はチョコレートなど美味しいと思つたことがなく、自分で買ふこともなかつた。反対に、妻はチョコレートが大好物。

チョコレート売り場

妻が亡くなつてしばらく後、スーパーに買ひ物に入つたとき、ふつと気がつくとチョコレートの並んだ棚の前に立つてゐた。自分が食べたいと思つて来たわけでは決してない。

「どうしてこゝに来たんだらう?」
と訝りながら、もしかして妻が食べたいのかも知れないといふ気がして、人生で初めてチョコレートを買つた。(買つたけど、結局食べはしなかつたといふ)

さういふ体験をすると、
「妻は見えてゐたときより、今のほうがもつと近くにゐるのかも知れない」
さう思つたと言ふのです。

相手が見えるときは、私の肉眼で見てゐる。いつも一緒にゐるとしても、体があるときには一定の距離があるのも事実です。

しかし相手が見えなくなると、私の目は役に立たなくなる。肉眼ではない目で見ないと、相手はまつたく見えない。もしさういふ目で見ることができれば、物理的な距離は却つてなくなる。

これは、亡くなつた配偶者に限らないなと思ふ。

例へば、良心も見えない。見えないからこそ、目に見える父母や先生よりも、もつと親しい導き手になる。

あるときにもし、自分でも思ひもよらないところに立つてゐる自分に気づくことがあるとすれば、それは良心がそこに行きたかつたのかも知れない。

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