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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神を経験する

2021/11/03
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養老孟司
神を経験する

解剖学者の養老孟司先生が面白い話をしておられます。

大きさが同じで重さの違ふボールが2つある。これらを塔の上から同時に落とすと、どちらが先に地面に到達するか。

重さが違ふなら重いほうが早く落ちるやうに、何となく思ひますね。本当にさうか。そこで、ガリレオがピサの斜塔の上に立つて2つのボールを落としてみた。

すると、2つのボールはほとんど同時に地上に落ちた。

ガリレオの行為を何と呼ぶか。ふつうには「実験」と呼びます。

ところが養老先生は、
「あれは実験ではない。人々の感覚に訴えたことなんです」
と言ふのです。

頭で考へると、重いほうが先に落ちるやうな気がする。それを科学は目の前でやつて見せて、「ほら、かうでしよ」と感覚に訴える。それによつて頭の中の世界を訂正していかうとするのが科学なのです。

ガリレオの時代、頭の中の世界(論理)は教会にあつた。教会の幹部たちが何百年にも亘つて、神について、この世の原理について議論してきた。ただ、感覚に訴えることを等閑視してきたのです。

教会は論理と観念によつて人々の頭を支配してきた。それに対してガリレオは感覚によつてその頭の中を変へようとした。最初教会はさういふやり方に反対したかも知れないが、結局はどちらが勝つたか。結果を見れば、論を俟たないでせう。

「感覚」といふのは、言ひ換へれば「経験」です。ガリレオは人々に「経験」をさせたのです。


それなら「経験」とは何か。それについて、こゝでもう少し考へてみませう。

さて、皮肉なことに、あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、経験をないがしろにしている。経験をないがしろにしているから、神を経験しても、それが神について教えられていたことと違うと、たちまち経験を捨てて言葉のほうをとる。ほんとうは逆であるべきなのだ。
(『
神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ)

こゝで
神を経験しても
と言つてゐます。

「神を経験する」とはどういふことでせうか。

我々の人生は「言葉(観念)」と「経験」の組み合はせで形成されると言つてもいゝでせう。どちらも重要なのですが、神にとつて優先的で強力なコミュニケーション・ツールは「経験」であつて、そのツールがうまくいかないときに次善の策として使ふのが「言葉」といふツールなのです。

ところが我々は往々にして、自分に起こつたある出来事を受け止めるときに、「経験」ではなく「言葉」を優先してしまひやすい。「言葉」といふのは、親から教へられたこと、学校や教会で教へられたことであり、世の常識と思はれてゐることでもあります。しかしそれらはどれも、神からの生の情報ではない。

生の情報とは、今私が現に経験しつつあることそれ自体なのです。それが神にとつて最も強力で有効なコミュニケーション・ツールだといふのです。その「経験」の中に神のどんな声が響いてゐるかを聞き取れと、神は願つてゐる。

神の声を我々はどのやうにして聞くか。何か特別の啓示や霊的体験などなくてもいゝのです。日々我々がふつうにする(と思つてゐる)経験の一つ一つがすべて神の声だと考へることができる。

今日どんな人に会ふか。どんな話をするか。どんな感情を抱くか。さういふ経験のすべての中に神の生の声が含まれてゐる。それを直接に聴き取る。

それが「神を経験する」といふことです。

さうであるなら、我々は日々の経験を通して、四六時中神とともに生きてゐると考へても差し支えないのだと思ふ。「神体験」とは何も特別なことではないのです。



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なるほど、養老孟司2
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