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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

選挙予想をなぜするのか

2021/11/02
世の中を看る 0
投票箱

第49回衆議院選挙が終はつてみると、大抵の予想は大いに外れたやうです。

予想では、自民党は単独過半数さへ危ういと見る向きもあつたのに、結果は過半数どころか安定多数も超えた。一方、共産党との共闘を組んでそれなりに議席を伸ばすと見られた立憲民主は、予想に反して何と14議席も減らしてしまつた。

立民と同様、選挙前から伸びさうだと見られてゐたのが維新の会。ところがこちらは、予想をかなり超えて30議席も上積みした。立民と好対照の結果です。

今や選挙に選挙予想は絶対不可分なものですが、なぜ予想などするのか。私はそこが疑問です。

選挙であれば、予想など立てなくても、2週間後にはちやんと結果が出る。候補者個人にとつては、当選か落選。それぞれの党にとつては、議席がいくつ増えるか減るか。

その結果に対する対応は、どうせ結果が出た後でないとできない。それなら予想などしないで、結果をぢつと待てばいゝのではないか。

それなのに、どうしても予想せずにはおれない。党にとつては死活問題であり、マスコミにはそれなりの思惑もあるのでせう。

ところが私が思ふに、選挙結果が確定してゐないといふ状況が、我々には不安なのです。そしてこの不安はかなり耐え難い。

量子力学に「シュレジンガーの猫」といふ思考実験があります。

箱の中に1匹の猫を入れる。放射性元素も入つてゐて、1時間で半減する確率は50%。ガイガー計数管が原子崩壊を検知すると猫に電流が流れて猫は死んでしまふ。

すると、1時間後に猫が箱の中で死んでゐる確率は50%。しかし死んでゐるか生きてゐるかは、箱を開けてみるまでは確定しない(分からない)。予想を立てるとすれば、50%は生きてゐるが、50%は死んでゐる、といふことになります。

しかしかういふ、どちらとも決まらない曖昧な状態は、我々は苦手なのです。早く箱を開けて確かめたいと思ふが、1時間立たないと開けられない。

選挙もこれに似てゐます。1人1人が投票用紙を入れる投票箱が、まさにシュレジンガーの猫の箱です。しかしこの箱は、猫の箱よりもつと複雑です。

選挙の結果がどうなるか、投票箱を開けてみるまで誰一人知らない。投票者は自分の入れた投票用紙だけは知つてゐる。しかし他の人の投票用紙は知らない。

候補者は選挙区を必死に回り、自分に投票してくれるやうに訴える。「必ずあなたに投票します」と言つてくれる人があつても、その人が本当にその候補者の名前を書いた用紙を箱に入れてくれるかどうかは分からない。

全国に一体いくつの投票箱があるでせうか。その箱のすべてがシュレジンガーの猫の箱です。そのすべてを開けてみるまで、状況は確率としてのみ存在します。

つまり、箱が開けられるまで、誰一人として結果を知る者はゐないといふことです。それでゐて、箱が開けられるまでは確率としてのみあつたものが、開けられた途端、確定した結果として出現する。

その結果は、一体誰が作り出したものでせうか。投票した一人一人が作り出したとは言へるが、同時に、誰一人として全体的な結果を作り出した人はゐない。

一人一人は自分が支持する候補者や党だけを明確に知つてゐるが、国民全体の総意は誰も予め知らない。総意は確率としてのみあり、それは結果が出たときに初めてすべての人に知られるものとなる。

これは当たり前のことであるやうでありながら、何だか非常に面白いことに思はれます。

選挙予想は、投票箱が開けられるまで確率としてある総意を予想するものです。予想の背後には不安と期待があります。

箱が開けられた途端、総意は確率からただ一つの結果として確定する。そのとき、不安も期待も消え去り、人々はその結果を受け入れて、そこから次の行動へと動き出すのです。

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