女性の特権
邪馬台国の卑弥呼が当時の魏の皇帝に使者を送つて外交を展開し、「親魏倭王」の称号を受けたことが「魏志倭人伝」に記録されてゐます。しかし「邪馬台国」も「卑弥呼」も、いかにも漢字が怪しい。
「邪馬台」はふつう「やまたい」と発音するが、この表記は当時の中国における「以音(声をもちいる)」といふやり方で、日本語の音を漢字で表記するとき、わざと見下げた漢字を使つたのでせう。多分発音としては「やまたい」ではなく「やまと」だと思はれます。
一方の「卑弥呼」も同様で、日本語で解釈すれば「日巫女」。これはどこから来たかと言へば、「大日霊女貴(おおひるめのむち)」すなわち「天照大神」に由来する。「巫」は「霊」の略字です。
すると、日巫女は天照大神を御祭神としてお守りし、コミュニケートする女性であつた。こゝが面白いところですが、神と直接口を利けるのは女性の特権であつたのです。これが女性の本来的位置です。
それなら男性はどうかと言へば、男性は神と直接には口が利けない。神の考へを知らうとすれば、女性に頼み、女性を通して伺ふしかないのです。
日巫女は魏の国に使者を送つた。その中には当時最高の技術者もゐて、その技術の粋である勾玉(まがたま)を携へてゐた。多分使者も技術者もそのほとんどは男性であつたでせう。
つまり、大神の意向を受けた日巫女の指示により、男性たちが動いた。神――女性――男性といふ関係です。これがどうも本来の三者の位置関係かも知れないと、私は思ふのです。
もちろん、すべての女性が巫女であるといふわけではない。しかし女性は本質的に巫女の霊性を有してゐると思ふ。
だから、神社で奉納する巫女舞ひは必ず未婚の女性と決まつてゐる。神に舞ひを直接奉納できるのは女性なのです。
一方、神楽は男性が舞ふことが多い。しかしこれは神に奉納する舞ひではなく、人々に神の有様を可視的に見せるための舞ひなのです。舞ふ目的の方向性が違つてゐます。
自分の妻を「かみさん」と呼ぶことがある。これは元々目上の人を「上様」と呼び、商家などの女主人を「おかみさん」と呼んだことに由来するとも言はれる。この呼称には最上級の目上である「神」のニュアンスが含まれてゐるのが感じられるが、それは正しいと思ふ。
女性には巫女の霊性があるので、男性が神との関係について女性の心配をする必要はない。男性の力など借りなくても、女性は自力で神とコミュニケートできる。その能力は、到底男性の及ぶところではない。
だから、夫婦で信仰に入る場合、十中八九は妻が先行し、夫を引つ張るかたちになる。大抵の男性は神に対する感性が女性ほど にはないから、妻から押したり引いたりされながらようよう神に近づく。まさに妻は「かみさん」なのです。
それなら、男性はどう生きたらいゝのでせうか。『神との対話』で神は、男との取柄は女性に子孫の種を与へることと力仕事の2つだけだとまで言つてゐます。
これはあまりに男として情けない気がしますが、それでも半分くらゐは認めざるを得ない。日巫女の事例に照らせば、男性は使者と技術者でせう。あるいは、神楽の舞ひ手です。
巫女が巫女としての仕事をよくできるやうに周囲を守り、技術能力を以て女性を助ける。それがよくできれば、男女関係はかなりうまくいくのではないかと思ふのですが、どうでせう。
女性があらゆる分野で男性と平等に進出する必要などない。それぞれの特性を見誤ると、男女ともに不幸にすると思ふ。

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