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「出会ひ」は偶然か

kitasendo
出会い

前回の記事で、
「誰かが思いがけなくあなたの人生にかかわってきたら、そのひとはどんな贈り物を受け取りにやってきたのだろうと考えなさい」
といふ神の言葉を紹介しました。

「誰かが思いがけなく私の人生に関はつてくる」

これを何と言ふのかと考へてみると、まさに
出会ふ
と言ふのでせう。

「出会ふ」を辞書で引くと、5つくらゐの意味が書かれてゐますが、その中で私たちがふつうに理解してゐるのは、
人・事件などに偶然に行きあふ
といふものだらうと思ひます。

確かに、改めて考へてみると、「出会ひ」といふのは「偶然」なのです。人生最初の「出会ひ」である父母も偶然。学校に入学して担任の先生と「出会ふ」のも偶然。アルバイト先で気の合ふ異性と「出会ふ」のも偶然。町で懐かしい友人と「出会ふ」のも偶然。

「偶然」ではない、計画的な「出会ひ」があるとすれば、それは「出会ひ」とは言はず、「落ち合ふ」と言ふべきでせう。

そのやうに考へると、人生の大半は「偶然」で成り立つてゐるやうにも思へる。

しかし、と、こゝで考へ直してみる。本当に私たちは「偶然」に「人や事件と行き会ふ」のだらうか。

本当に偶然に、この父母のもとに生まれてきたのだらうか。本当に偶然に、担任の先生と出会ひ、恋人に出会ひ、懐かしい友に出会ふのだらうか。

私と出会ふ人はすべからく、何らかの「贈り物」を交換するためにやつて来るといふのです。ある人は私に良いものを、別の人は私に悪いものを「贈り物」として携えて来る。

相手が良いものを持つて来てくれれば私は喜びを体験し、悪いものを持つて来るなら苦痛を体験する。しかしどんな体験であつても、「真実の私」はその体験に満足を感じるはずなのです。そしてその満足の体験によつて、私は相手に「恩恵」を返礼として贈る。これが「出会ひ」の本当の意味ではないかと思はれてきます。

たとい苦痛の体験であつても、なぜ「真実の私」はそれに満足を感じるのか。いかなる体験も「偶然」ではない。それは神が私に天使を送つてまで体験させてくださつた貴重な体験であるはずだからです。

その体験の貴重な価値を、しかし「理性の私」は見逃してしまふ。私にとつて良い(と思へる)ものを持つて来てくれた人は歓迎しながら、悪い(と思へる)ものを持つて来てくれた人は忌避をする。

さうなると、私は返礼として「恩恵」を相手に贈ることができなくなるのです。

一体、私が「良いもの」とか「悪いもの」と判断するのは、何を基準とするのか。「真実の私」はその判断をしない。少なくとも、判断を保留にする。

私の体験からすると、
「良いことが起こってほしい」
と期待してゐると、却つて悪い(と思へる)ことが起こることがある。

さういふ体験を何度も繰り返すうちに、気づかされるのです。

出来事には『良い』とか『悪い』はないのだ。ただ、私がそれを『良い』とか『悪い』とか区別してゐるに過ぎない

だから、どんな出来事であれ、私が「良い」と判断すれば、それは「良い出来事」になるのです。人も出来事も偶然を装つて私と出会ふのですが、実は神が天使を送つてその出会ひを演出してゐるといふ舞台裏が必ずある。

さう考へるのが「真実の私」だと思ふ。

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なるほど、池田晶子2
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