真実の私を満足させる贈り物
誰かが思いがけなくあなたの人生にかかわってきたら、そのひとはどんな贈り物を受け取りにやってきたのだろうと考えなさい。… あなたのところへやって来るひとはみんな、贈り物を受けとりに来るのだ。それによって、相手はあなたに贈り物をする――あなたの経験、そして真実のあなたを満足させるという贈り物だ。 こんな単純な真実がわかれば、すべてのなかで最も偉大な真実が見えてくる。わたし(神)があなたのものへ送るのは天使だけ、それ以外はない。 (『神との対話2』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
思ひがけない人と出会つたとき、ふつうに我々が考へる常識とずいぶんかけ離れてゐるやうに思ひます。しかしこゝを読みながら、私は思はず「悪霊の再臨復活現象」を想起したのです。
この現象については、これまで何度も触れたことがあります。

私に清算すべき何らかの問題があるとき、神は私に悪霊を送つて苦痛を与へる。あるいはその悪霊を別の人のところに送り、その人を通して私に何らかの苦痛を与へる。その際、私がその苦痛を「自分が当然受けるべきこと」として喜んで受けれれば(これを「甘受」と呼ぶ)、それを条件として私の問題が清算される。と同時に、私に苦痛を与へた人、さらにその背後の悪霊までも同様の恩恵を受ける。
上に引用した神の話は、この甘受のシステムと似てゐるなと思つたのです。と同時に、裏腹の部分もある。その点を考へてみようと思ひます。
思ひがけなく私に関はつてきた人。彼は私からどんな贈り物を受け取りにやつて来るのか。「復活の恩恵」を受け取らうとして来るのです。(もちろん、無意識的に)
私はその贈り物をどのやうにしたら彼に与へることができるか。彼が私にもたらした苦痛を「甘受」することによつてです。このとき彼が私に与へる苦痛が、彼から私への「贈り物」です。
さうすると、私は彼から「苦痛といふ贈り物」をもらひ、そのお返しとして「復活の恩恵」を贈り返すといふことになる。何だか如何にも不公平な、私にとつて損な取り引きのやうに思へます。
しかしそれこそが「すべてのなかで最も偉大な真実」なのです。
ただこゝに一つ、再臨復活現象と神の話との間に大きな違ひがあるやうに見えます。再臨復活現象では、神は私に悪霊を送ると言つてゐる。それに対して神の話では、神が私のところへ送るのは天使だけ、それ以外はない、と語つてゐる。この違ひは、どう考へたらいゝのでせうか。
神の話では、相手が持つてくる贈り物(苦痛)が真実の私を満足させると言つてゐます。天使であれば良いものを持つてきてくれるに違ひないから、その贈り物に私は満足する。さう期待しても良ささうです。しかし悪霊が苦痛を持つてきたのに、私がそれに満足するなどあり得ないのではないか。
2つの話が矛盾なしに符合し得るかどうか、考へてみませう。
神が
「わたしがあなたのもとへ送るのは天使だけ」
と言ふとき、それは文字通りに(善の)天使とは限らない。悪霊であるかも知れないのです。
しかし、その苦痛をもたらした相手が天使であらうが悪霊であらうが、私が彼から受けた苦痛をほんとうに甘受できたなら、すべては善の結果をもたらすので、その相手が善の天使であるか悪霊であるかは問題にならない。謂はば、すべて天使であると言つて差し支へない。
つまり、誰が私のもとへ送られてきたかは私の受け止め方次第だといふことです。天使か悪霊かを決めるのは送る側の神ではなく、受け止める側の私だと言つてもいゝ。
こゝで注意すべきは、神が
「真実のあなた」
と言つてゐることです。
頭で理性的に考へるだけの「表面意識の私」であれば、苦痛は損害と即断するでせう。しかし「真実の私」であれば、苦痛も快楽と同様、あるいはそれ以上の恩恵だと評価できる智恵を持つてゐる。
だから、
「(苦痛でさへ)真実のあなたを満足させる贈り物」
だと言つてゐるのです。
さういふ「真実の私」になることが、私の最大の課題です。

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