私の中の林檎
丸テーブルに私と2人の友人が座つてゐる。テーブルには林檎が1個置いてある。
「世界の中の林檎」といふ客観的な視点で見れば、テーブルの上に林檎は1つしかない。しかし「私の中の林檎」といふ主観的な視点なら、3人の中にそれぞれの林檎が存在してゐるのです。
世界の中の林檎は、私の一存で扱ふことができない。私がそれを独占しようとすれば、あとの2人はそれを阻止しようとするかも知れず、奪ひ合ひが起こる可能性もある。
しかし私の中の林檎なら、私の思ひ通りにできるのです。私が1人で食べることもできるし、3人で分けて食べることもできる。
私が1人で食べようとするとき、私の中の世界は奪ひ合ひの世界、競争、弱肉強食の世界であり、殺伐とした世界です。一方、3人で分けようとするとき、私の中の世界は与へ合ふ世界、共存と愛の世界です。
しかし問題は、あとの2人にもそれぞれ「私の中の林檎」があることです。だから私は共存の世界に生きようと思つてゐても、あとの2人が競争の世界の人であれば、目の前の林檎は彼らに奪はれ、私は泣きを見ることになる。
これはどういふことでせうか。我々は誰でも2つの世界に生きてゐるといふことです。一つは「世界の中の私」、そしてもう一つが「私の中の世界」です。
「世界の中の私」として生きてゐるのは肉体の私。一方、「私の中の世界」を持つてゐるのは霊人体の私です。
肉体の私が生きてゐる世界は時空に規定されてゐます。宇宙の中に銀河系があり、その中に太陽系があり、その中の地球人の1人として生きてゐるのが肉体の私です。
肉体の私が生きていくには目の前の林檎を食べる必要がある。その食べ方にはいろいろあつて、それは肉体の私が生きてゐる世界がどんな世界かに左右されます。
その世界が競争の世界であれば、力の強い者がより多くを占有する。もう少し共存的な世界であれば、比較的平等に分配される可能性がある。
それなら、その世界が競争の世界か共存の世界かはどのやうに決まるのか。それを決めるのは、「私の中の世界」を持つてゐる霊人体なのです。
多くの人(霊人体の私)が自分の中に競争の世界を持つてゐれば、肉体が生きてゐる世界は必然的に競争の世界になる。反対に、多くの人が自分の中に共存の世界を持つてゐれば、肉体が生きてゐる世界も共存の世界に近づく。
つまり肉体の世界がどのやうな世界になるかは、霊人体の私が決める。これを言ひ換へれば、「私の中の世界」がより本質であり、それによつて「世界の中の私」が結果として現れるといふことなのです。
これを仏教では
「三界は唯心の所現」
と言つたのだらうと、私は思ふ。
「世界の中の私」が幻想だとか、あるやうに見えて本当はないのだとか、そんなふうに言ひたいのではありません。神がこの世界を創造された。そしてその世界に私をご自身の似姿として創造された。それは大前提です。
こゝで言ひたいのは、霊人体の私は肉体の私を通して「世界の中の私」を体験する。それが真実ではないかと思ふのです。
さまざまな万物を食べればどんな味がするか。人に触れて愛すればどんな喜びがあるか。愛する人を失へばどんな苦痛があるか。さういふことは肉体の私がないと感じられないのです。
「私の中の林檎」の味は「世界の中の林檎」を通してこそ味はえるといふことです。

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