「原理」を悟ると思想家になる
私たちは、(「原理」を)絶対視すると愛情が流れない。「原理」が思想に固まってしまうのです。 「原理」を消化した自然人間(本然たる人間)になるようにと、人間を正常化する目的なのに、「原理」という理念にとらわれてしまっているのです。 そうなると、結局一つの思想家になって、豊富な人間性をもった人間同士の関係が崩れ、孤立しやすい。私は「原理」を悟ったと、悟ったそのものに主管されて、結局、盲目になりやすい危険性が私たちにあるのです。 (『心情開拓』李耀翰) |
こゝで李牧師が警告しておられる「危険性」は、ほんとうにその通り。際どいものだと思ふ。誰か他の人の危険性ではなく、まさに自分自身の危険性として私は感じます。
「原理」が「教義」になると、「思想」として固まつてしまふ。すると「原理」を学んで悟つたと思ふ人は宗教人でも愛の人でもなく、「思想家」になる。
思想家になると、豊かな人間性をふくんだ人間関係が崩れて、孤立しやすい。思想に主管されて、目の前のものがありのまゝに見えず、盲目の人になる。
これはまさに、私自身が長年感じてきたことそのまゝです。
「原理」を学ぶと、それまでの人間関係に強い違和感を覚えるやうになる。価値観、世界観の違ひを感じて、話が合はなくなるのです。
そして内心では、
「私は神を知つてゐる。この世の真実を知つてゐる。しかし他の人たちはそれを知らない」
と、自分と他の人との間に境界線を引き、自分が高みにゐるやうな高慢な気分になる。
思想といふのは、それが高尚であると思へば思ふほど、その思想の枠組みでこの世を見るやうになる。謂はば、丸いものでも三角のものでも、すべて一つの四角の箱に入れようとするやうなものです。
丸いものに向かつて
「四角になれ」
と言ふのですから、互ひの間に愛情が流れるはずはなく、自然で豊かな関係が結ばれるはずもない。
もちろんこれは、「原理」が悪いのではない。それを受け取る私の側に問題があるのです。
「原理」は私を本然の人間にしようとするものなのに、私が「原理」の理念に目を眩まされてしまふ。頭で理解すると言つたらいゝのでせうか。
「原理」を絶対視しないで、自分を絶対視する。「原理」に主管されないで、愛に主管される。さういふ道を模索しないといけないと思ふ。

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