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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「原理」を悟ると思想家になる

2021/10/15
信仰で生きる 1
李耀翰
四角

私たちは、(「原理」を)絶対視すると愛情が流れない。「原理」が思想に固まってしまうのです。

「原理」を消化した自然人間(本然たる人間)になるようにと、人間を正常化する目的なのに、「原理」という理念にとらわれてしまっているのです。

そうなると、結局一つの思想家になって、豊富な人間性をもった人間同士の関係が崩れ、孤立しやすい。私は「原理」を悟ったと、悟ったそのものに主管されて、結局、盲目になりやすい危険性が私たちにあるのです。
(『心情開拓』李耀翰

こゝで李牧師が警告しておられる「危険性」は、ほんとうにその通り。際どいものだと思ふ。誰か他の人の危険性ではなく、まさに自分自身の危険性として私は感じます。

「原理」が「教義」になると、「思想」として固まつてしまふ。すると「原理」を学んで悟つたと思ふ人は宗教人でも愛の人でもなく、「思想家」になる。

思想家になると、豊かな人間性をふくんだ人間関係が崩れて、孤立しやすい。思想に主管されて、目の前のものがありのまゝに見えず、盲目の人になる。

これはまさに、私自身が長年感じてきたことそのまゝです。

「原理」を学ぶと、それまでの人間関係に強い違和感を覚えるやうになる。価値観、世界観の違ひを感じて、話が合はなくなるのです。

そして内心では、
「私は神を知つてゐる。この世の真実を知つてゐる。しかし他の人たちはそれを知らない」
と、自分と他の人との間に境界線を引き、自分が高みにゐるやうな高慢な気分になる。

思想といふのは、それが高尚であると思へば思ふほど、その思想の枠組みでこの世を見るやうになる。謂はば、丸いものでも三角のものでも、すべて一つの四角の箱に入れようとするやうなものです。

丸いものに向かつて
「四角になれ」
と言ふのですから、互ひの間に愛情が流れるはずはなく、自然で豊かな関係が結ばれるはずもない。

もちろんこれは、「原理」が悪いのではない。それを受け取る私の側に問題があるのです。

「原理」は私を本然の人間にしようとするものなのに、私が「原理」の理念に目を眩まされてしまふ。頭で理解すると言つたらいゝのでせうか。

「原理」を絶対視しないで、自分を絶対視する。「原理」に主管されないで、愛に主管される。さういふ道を模索しないといけないと思ふ。

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なるほど、小林正観2
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Comments 1

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はちみつ

その通りですね。
最初は感動しても、段々と思想的になってしまう。
それで排他的(自分達以外はサタン!)になり、分裂しちゃうんですね。
これは統一教会だけでなく、今までの宗教が抱えてきた課題でもあります。
だから宗教戦争が絶えないのかなと。
私にとっても課題です。

2021/10/18 (Mon) 20:57