自分の小さな正義は要らない
久しぶりに介護日記です。
脳梗塞を起こして入院し、1ヶ月後に退院してから、早いもので8ヶ月以上が経つ。日々1ミリづつ弱つて来てゐるやうな気はするものの、大過なく過ごしてゐます。
今日の夕方、もうそろそろ夕食を食べさせようかと、様子を覗きに行つてみると、部屋にウンコ臭が漂つてゐる。「またやられたか」と思つて目を凝らしてみると、ベッドのすぐ下に太いバナナ状のものが転がつてゐる。そのすぐ横には、尿漏れパッドが2枚散乱。
ところが、おばあちやんはいつも通り、ベッドの上に寝てゐる。ゆつくり布団をはぐつてみると、オムツはちやんと履いてゐる。
それを見て、私は
「う~ん」
と唸る。
おばあちやんはどうやつてこの見事なウンチを床に残したのか。ミステリーのやうだ。
おばあちやんにはおむつを履かしてゐる。オムツの内側には、尿や便が外に漏れにくいやうにパッドを2枚当てがつてゐる。おばあちやんはオムツはそのまゝに、内側のパッドだけをうまく外して排便したことになる。
しかも通常は、一人では立てない。私が支へて立たせ、柵を両手で握ることで何とか自立でき、すぐ後ろの簡易トイレにゆつくり座らせて用を足す。ところが今回、おばあちやんは自力でベッドを降りてウンチを床に残し、自分でベッドに戻つてゐる。しかもパッドだけをうまく外して。
しかしこの難解な謎解きに時間をかけてゐる暇はない。ともかくこのウンチの処理をせねばならない。
子細に調べると、掛け布団にも若干ウンチがついてゐる。両足のふくらはぎから足首にかけてもついてゐる。おばあちやんが下手に動くと他にもウンチがつくから、きれいに拭き取るまで動きを封じねばならない。
「おばあちやん、足にウンチがついてゐるから、しばらくぢつとしてゐてよ」
と頼むと、おばあちやんは
「足にウンチ? 誰がしたんかね?」
と首をかしげる。
自分はウンチなどした覚えがないのです。だから誰か他の人がしたとしか思へない。
かういふとき、少し前までは
「誰がしたかと言つても、おばあちやんしかゐないぢやないの」
と答へてゐたのですが、さうするとおばあちやんは
「わたしがした覚えはない。他の人がした」
と断固反論するのです。
それでも自分がしたといふ事実を否定しやうがなくなると、
「自分でしたのに分からないとは、情けない」
と言つて、泣き出す。
こんなことを何度か繰り返すうちに、私は
「事実を知ることは必ずしも(あるいは、往々にして)本人を幸福にしない」
と分かつてきた。
どうして私が事実をおばあちやんに納得させようとしたのか。改めて考へてみる。
おばあちやんが言ひ逃れをしてゐるやうに思へて、見過ごせない。自分の正義を納得させずにはおけない心境になる。そして、失敗したウンチの片づけをせねばならない自分が、あたかも被害者であるかのやうに感じる。
自分の中のかういふモヤモヤを解消するには、おばあちやんにどうしても事実を認めさせる必要があつたのです。
しかし自分の正義を通せば、相手は自己嫌悪に陥る。それが分かつてゐながら、それでも相手に事実を認めさせ、自分の正義を通すことに、どれほどの意味があるのか。
そんな正義の虚しさを感じて以来、私は自分の取るに足りない正義を捨てることにしたのです。
おばあちやんが
「誰がウンチをしたんかねえ?」
と言へば、
「ほんとに、誰だらうね」
と答へる。
さう答へて、あとは足についたウンチをきれいに拭いてあげれば、おばあちやんは自己嫌悪に陥ることなく、「有り難うね」と感謝する。それで一件は落着するのです。
事実の追及は要らない。自分の小さな正義も要らない。さういふ場面は、生活のいろいろなところにあるのだと思ふ。

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