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「問題」は自分の中にしかない

kitasendo
親子

前の記事で、小学生の娘が友だちとの関係で問題を起こした出来事を紹介しました。父親はそれを賢明に対処できたとも言へるのですが、もう少し深く考へてみたいと思ひます。

娘が友だちから仲間外れにされたと感じて、つい
「あんたなんて、死ねばいゝのに」
と口走つてしまつた。

その話を聞いて、父親は娘の「思ひ」と「手段」をきちんと分けて受け止め、娘と一緒に問題解決に取り組んだ。それは賢明な対処だつたと思ふのですが、あくまでも「娘の問題」への対処です。

このとき、父親がはつきり自覚してゐたかどうか。それは分からないが、「娘の問題」とは別に「父親の問題」もあつたと思ふのです。


■「娘の問題」と「父親の問題」は別



何が「父親の問題」でせうか。この場合、父親は「娘の問題」解決の助け手であつて、彼自身に特段の問題はなささうに見えます。しかし実はあるのです。

娘が問題を起こす。それによつて、娘自身はもちろん苦しんでゐる。これは「娘の問題」です。

ところが、その問題が父親のところに持ち込まれる。すると、「娘はなぜこんな問題を起こしてしまつたのか。父親としてどうしたらいゝか」といふ悩みが生じる。この悩みの体験が、「父親の問題」なのです。

ふつうの目で見れば、今家庭の中にあるのは「娘の問題」だけのやうに見える。しかし実は「娘の問題」のほかに「父親の問題」「母親の問題」、家族の人数だけの問題があるのです。そしてそれぞれの問題はいづれも、本人の内面に存在する

つまり、「娘の問題」は娘の中にだけあり、父親の中にはない。父親の中にあるのは「父親の問題」だけなのです。だから父親が「娘の問題」を解決しようとすれば、本当はその前に自分の中の「父親の問題」を解決しなければならない。

もし父親が自分の中の問題を解決しないまゝに「娘の問題」を解決しようとすれば、どうなるか。

例へば、
「いくら仲の良い友だちでも、そんなことを言つてはいけない。謝つてきなさい」
と、自分自身あるいは世間一般の倫理基準を当てはめて娘を正さうとする可能性があります。

しかしこれでは、「娘の問題」が本質的に解決されるとは思へない。


■子どもは親を悩ませるために生まれる


それなら、父親は「娘の問題」を上手く解決するために、どう「自分の問題」を解決すればいゝのでせうか。

まづ視点を変へる必要があると思ふ。「娘の問題」を解決するために自分が対処するといふ立場ではなく、「娘の問題」は「父親の問題」を明らかにするために起こつた。そのやうに視点を変へることです。

つまり、父親の中に潜在してゐた問題が、娘を通して出てきた。娘を通して自分の問題に気づく。娘は自分の行動を通して父親の問題を見せてくれた。それが父親の真の立場なのです。

それなら、父親の中に潜在してゐた問題とは何でせうか。

これは、娘の育て方が悪かつたとか躾が足りなかつたとか、さういふ表面的な問題ではない。表面的な問題なら少し考へれば思ひつくでせうが、本当の問題はもう少し深い所にある。自分では容易に特定できないものです。

娘の中にも父親の中にも、無意識による自動再生システムが稼働してゐます。だから父親はごく当たり前のやうに「この娘は自分の娘」と思つてゐる。

しかし実は、この娘が偶然自分の家庭に生まれたとは考へないほうがいゝと思ふ。少し過激に言へば、親をわざと悩ませるために生まれてきた。悩ませることによつて、親自身が抱へてゐる問題に気づかせるのが子どもの目的なのです。(もちろん、子ども自身はその目的など自覚してゐないが)

これは、子どもにとつても同じことが言へます。なぜこの2人が自分の両親になつたのかと言へば、自分を悩ませ、自分の問題に気づかせるためなのです。

かういふわけで、問題はすべて「自分の中」にあり、それ以外のところにはない。誰でも自分以外の人(特に身近な人)によつて自分の問題に気づき、自分の問題を解決するために生きてゐると考へるのが賢明だらうと思ふ。

自分の問題を上手く解決せずして、人の問題に対処することはできないのです。

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