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無意識の自動再生を一時停止する

kitasendo
一時停止ボタン

ある方の体験談です。

小学生低学年の娘があるとき、友だちに向かつて
あんたなんて、死ねばいゝのに
と言つたといふ。それが友だちの親伝ひに、自分たちまで伝はつてきた。

小さい子どもとは言へ、穏やかならざる言動なので、親としてもどう対処したものかと悩むところです。母親は慌てたが、父親は少し考へた。


■「思ひ」と「手段」を分ける



まづ、どういふいきさつでその言葉が出たのかを確認すべきだと思ひ、娘に事情を尋ねた。出来事の全体像を知らうとしたのです。

娘が言ふには、そのとき仲の良い女の子と3人一緒にゐた。ところがことの成り行きで、他の2人だけで遊んで、自分が仲間外れになつた。それで娘は寂しい気持ちになり、ついあの言葉が出てしまつたといふのです。

娘のその告白を聞いて、父親は娘の「思ひ」と「手段」とを分けて対処することにした。

つまりこの場合、「仲間外れになつて寂しかつた」といふのが「思ひ」。その状況を打破しようとして「死ねばいゝのに」と言つてしまつたのが「手段」。父親は娘の「思ひ」は認め、その上で「手段」についてはその是非を娘と話し合つたのです。

この対応はなかなか賢明だなと思ふ。

「思ひ」は否定しないで、そのまゝ受け入れる。「寂しいと思ふべきではない」と言つたとしても、娘は困る。「思ひ」は我知らず無意識から出てくるもので、自分でもどうしやうもない。父親はさう思つたのでせう。

一方の「手段」はどうか。

「死ねばいゝのに」といふ言葉も、多分ほぼ無意識的に出たものでせう。しかしこちらは、ある程度修正の余地があるやうに思へる。だから父親はこの点について娘と話し合つたのです。

そのときの娘の気持ちは想像するしかないが、救はれたやうな気持ちだつたのではないでせうか。「手段」がベストでなかつたとは自分でも分かつてゐる。でも自分だけが悪いのではないと言ひたい。

その娘の気持ちを父親はちやんと受け止めたのです。「手段」にはクエスチョンマークを付けたものの、「思ひ」は全面的に受け入れた。

私自身を振り返つても、「思ひ」と「手段」をはつきり分けない愚を犯すことがよくあるなと思ふ。「手段」を非と見ることによつて、「思ひ」まで一緒に否定しまふ。あるいは無視してしまふ。

しかし、「そんなふうに思つてはいけない」と言はれても、出てくる感情はどうしやうもない。頭ごなしに否定する相手に反発心が起こるだけでせう。


■「一時停止ボタン」を押す



ところで、「手段」の修正方法について、スティーブン・コヴィー氏が『七つの習慣』の中で、良いアイデアを教へてくれてゐます。「一時停止ボタン」を押すといふものです。

我々の内面は、動画が自動再生され続けてゐる状態に例へられます。娘の例で言ふなら、仲間外れになれば「寂しい」。寂しければ「相手を攻撃する」。これが無意識の自動再生です。

彼女が意識的に「一時停止ボタン」を押さない限り、彼女の内面では無意識の自動再生が回り続ける。

そこで「寂しい」と思つた直後に「一時停止ボタン」を押す。

「ちよつと待てよ。こゝで私は『あんたなんか、死ねばいゝのに』と言ふのがベストだらうか?」
と自問してみる。

自問すると、自動再生が一時停止します。はつと目が覚めるやうに、無意識から意識へと移るのです。

思ふに、我々の生活の大半はこの無意識の自動再生システムのお蔭でスムーズに営まれてゐます。しかしこのシステムがあまりに便利なために、反面においては、我々が自分の堕落性から脱却することを阻んでゐます。

堕落性によつてシステムが動いてゐても、それ自体を自覚できないのです。それゆゑ、適宜「一時停止ボタン」を押すことは、堕落性を脱ぐために有効な手段の一つに違ひないと思はれます。

出来ればこの問題を、もう少し深掘りしてみます。

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Admin:kitasendo