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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

治療で死ぬな

2021/10/08
思索三昧 0
治療で死ぬ

今日我々は、「闘ふ」といふ表現をよく使ふ。ちよつと使ひすぎではないかといふ気がします。

「テロと闘ふ」「犯罪と闘ふ」、さらには「貧困とも闘ひ」、「少数者の権利獲得のためにも闘ふ」。「再挑戦」と言へばよささうなところで「リベンジ(復讐)」と言つたりもする。

ほとんど無意識のうちに「闘ふ、闘ふ」と繰り返してゐます。

日本では間もなく衆議院選挙が行はれる。すると、日本全国の小選挙区ごとにいくつもの政党が闘ふことになる。選挙も勝つか負けるかの闘ひです。負けた政党は野党になるが、勝つた与党への批判攻撃を止めることはないでせう。

こんな話もあります。アメリカ医学会誌(JAMA)によると、アメリカ人の死因の第1位は心臓病で第2位がガン。そして意外なことに、第3位が「治療行為だと言ふ。

これはどういふことだらう。詳しくは分からないが、字義通りに受け取ると、治療すれば却つて死ぬ可能性が高くなる。だから死にたくなければ、心臓病とガン以外は治療しないほうがいゝ、といふ理屈です。何ともおかしな話に思はれます。

西洋医学は特に、「闘ふ」といふ概念を土台としてゐるやうに思ふ。「病気と闘ふ」「ガンと闘ふ」といふやうな表現をよく使ふのはその表れでせう。闘ひに勝つために、悪い所は切つてしまひ、抗ガン剤でガン細胞を撃退するのです。

病気との闘ひで、西洋医学は抗生物質といふ強力な武器を手に入れた。この武器には、最初のうちこそ目覚ましい効果があり、感染症との闘ひに勝利をもたらすかと思はれた。

ところが現在では、多くの専門家はこの武器の無差別的使用は時限爆弾だと考へる。スーパー・バクテリア(抗生物質耐性菌)のせいで感染症が復活し、爆発的に流行する恐れがあるといふのです。

「治療行為」は「病気と闘ふ」ために、抗生物質をはじめとしたより強力な武器を準備して病気といふ敵を叩く。ところが最初は病気も不意打ちを喰らつて怯むものの、態勢を立て直してより激しく反撃に出る。

治療といふ名の闘ひが起り、人の体がその闘ひの戦場になる。それで「治療行為」が結果的に体を傷つけ、死因の3位に入ると考へると妙に納得がいきます。

ことほど左様に世の中のあらゆる面で「闘ひ」が展開するのは、一体どういふ訳か。治療にしろ政治にしろ、それを「闘ひ」にする必要があるのでせうか。

「闘ひ」はまづ、頭の中に生まれる。「闘ひ」といふ観念が頭の中に生まれ、その観念が「闘ひ」の溢れる現実を作り出してゐると思ふ。

それなら、「闘ひ」の観念はどんなふうに頭の中で形成されるのでせうか。

「闘ひ」の観念には「敵」の存在が必須です。「敵」とは私と意見・考へを異にする者です。

あることについて私が考へてゐる内容があり、「敵」はそれとは違ふ(あるいは正反対の)考へを持つてゐる。そして私は「私の考へが正しく、敵の考へは間違つてゐる」と判断してゐる。(本当は、思ひ込んでゐる)

それで物事を正しく処理するには私の考へを適用しなければならないと思ふ。そのとき、敵が自分の考へを強行しようとするなら、それを阻止しなければならない。そこで必然的に「闘ひ」が起こるのです。

「闘ふ」目的は「敵」に勝つためです。勝つて自分の「正しさ」を実現しようとする。

自分の生存を守るために、「闘ひ」を避けられない場合もあると思ふ。しかし「闘ひ」は基本的に双方に膨大なエネルギーを浪費させる。「闘ひ」に勝つためには、互ひにより強い武器を準備しなければならないのです。

抗生物質を無闇に使へば、相手も耐性菌になつて対抗するやうに。あるいは、夫婦双方が自分の「正しさ」を通さうとすると喧嘩になり、その喧嘩に勝つために相手の非を裏づける証拠を収集し、必要に応じて威圧、無私、皮肉などの戦法を活用しなければならないやうに。

だから「闘ひ」はなるべくしないほうがいゝと思ふ。そのためには、頭の中から「闘ひ」の観念を捨てることです。そしてそれを捨てるためには、「自分が正しい」といふ思ひ込みに気がつくことです。

我々は「自分の正しさ」は絶対に譲れないと思つてゐる。しかし、思つてゐるほどにそれは価値のあるものでせうか。

「自分が正しい」と信じるのは、謂はば「心の癖」です。誰もがその癖を持つてゐる。その癖を手放す人が増えれば増えるほど、「自分の正しさ」は減つていき、「闘ひ」も減つていく。

病気で死ぬのなら仕方がないが、治療で死ぬのはあまりに残念な話です。

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