誰がわたしに聞かうとするか
知り合ひのブログに、「自己牧会プログラム」実践者の印象的な体験談が紹介されてゐます。
その体験談によると、プログラムを実践し続けることで神を感じることが増える。面白いことには、こちらからは神に語りかけてゐるつもりでもないのに、ふいに神からの声が聞こえるやうな体験をするのです。
例へば、その人には、長年親しくつき合てゐる友人がゐる。長年の友人だから、自分の名前を一番たくさん呼んでくれた人だらうなと思つてゐると、
「それは違ふ。あなたの名前を一番たくさん呼んだのは私だ」
といふ声が聞こえたやうな気がする。
何も意識的に尋ねたつもりはないのに、神から訂正のコメントが届いたやうな感じです。
そんな体験があつたあと、その人が所属する教会の日曜礼拝で、説教者が
「太初のエデンの園の時代に戻りませう」
といふ説教をしたことがある。
どんな時代かと言ふと、神と人とが一問一答をしてゐた時代です。自分の体験を思へば、その説教者の主張することについて、
「そんなことも、まんざら不可能ではないな」
といふ気がしたと言ふのです。
さういふ体験談を聞き、私自身の体験も踏まへて考へると、
「我々の生活は、思ひ煩ふほど複雑なものではないのだらうな」
と思ふ。
人が聞いて、神が答へる。あるいは、良心が答へる。その答へに従つて行動する。それが私の日常になれば、私の心霊は着実に成長する。
それで人生が営まれるなら、エデンの園の時代と同様、宗教は要らない。少なくとも、組織や制度としての宗教は不要でせう。教会の指導者が神の原理やみ旨を説くまでもなく、一人一人が自分の内面で神の声を聞くのです。
もし指導者の必要性があるとすれば、それは各自が自分の内面で神の声を聞く手助けをすることだけでせうか。
わたしはすべての者に、つねに語りかけている。問題は、(わたしが)誰に語りかけるかではなく、(わたしに)誰が聞こうとするか、ではないか? (『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |

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