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「十一条」の心

kitasendo
暖かい笑顔

あなたがたはまた「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。
わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
(マラキ書3:7-10)

聖書にはかなり古い時代から「十分の一条」の思想が見られます。しかしその思想を神の側から明確に表明してゐるのは、マラキ書のこの箇所が随一でせう。

それにしても、こゝでの神の言葉はかなり圧が強いですね。

「十分の一をささげないといふことは、つまり私のものを盗んでゐることに等しい。さういふ者たちは、私の呪ひを受ける」

脅し、といふか、ほとんど恫喝に近い響きがある。かういふ言葉を直に言はれれば、しかもそれが神の言葉だと言へば、相当ビビるでせう。

尤もそのあとで神は、
「私の倉にはお前たちに分け与へるものが溢れてゐるから、本当に私がそれを惜しみなく注ぐかどうか、試してみなさい」
とも勧めておられる。

最初は脅しておいて、次に恵みを約束する。前段と後段の落差があまりに大きい感じがします。しかし前段はショック療法で、神の御心は後段にあると思ふ。惜しみなく、無限に与へたいのが、神の本音だと思ふ。

さてそれなら、神の言はれる
あふるる恵み
とは一体どんなものか。それを慎重に考へてみませう。

響きはとても良いですね。「あふるる」と言へば、「受け止めきれないほど沢山の」といふ感じがあつて、ワクワクします。

しかし、その「恵み」はどんな形で私のところに来るのか。これは分からない。

「宝くじを当ててください」
と頼んでも、その形で来るかどうかは分からない。

また、その「恵み」はいつ来るのか。それも分からない。

1年後か、10年後か。あるいは私の代には来なくて、私の子ども、あるいは子孫に来るかもしれない。

「天の倉には恵みがたつぷり貯めてある。試してみなさい」
とは言はれるものの、何が、いつ来るのか、私にそれは分からないし、関与もできない。神の御心次第なのです。

私が昔「十一条」の講義をするときには、
「恵みはあなた本人に来たほうがいゝですか? それともあなたの子孫に来たほうがいゝですか?」
と、受講者によく尋ねました。

すると大抵の人は、
「私ではなく、子どもに来たほうがいゝ」
と答へるのです。

自分が尽くしたものは、自分にではなく、自分の子孫に返つてくるほうがもつと嬉しい。さういふ本心は、誰でもが持つてゐるものです。

「十一条」について知ると、そんなふうに「神と私との関係」を意識するやうになる。そして「十一条」を実践してみれば、確かにその恵みを感じるやうになる。

しかし、もう少し考へれば、「十一条」はただ単に「神と私の関係」といふ信仰的・宗教的な、ある意味で狭い概念に留まるものではないと思ふのです。

こゝで神が本当に言ひたいのは、
すべてのことに十一条の心を持ちなさい
といふことではないでせうか。

つまり、神の宮にだけ、あるいは教会にだけ十一条を捧げるのではなく、生活のあらゆる場面で「与へる」ことを考へる。さうすれば、仮令神を意識しないとしても、十一条の原理は寸分違はずに作用する。

「与へる」ものは、何もお金や物に限りません。場合によつては「暖かい笑顔」でもいゝし、「思ひやりのある言葉」でもいゝ。「自分の時間を割いたボランティア」でもいゝ。

ともかく、今の自分が持つ最良のものを与へようとする。それを「十一条」と呼んでもいゝでせう。

私たちがそのやうに「いつも与へようとする」立場に立つと、天の窓が開いて、人に与へきれないほどの沢山のものが入つてくるやうになる。つまり「十一条」は、どんな宗教、どんな時代かに関係なく万物万象に作用する、謂はば「宇宙の法則」と言へるものです。

「十一条」をそのやうに考へれば、私たちの意識は教会といふ次元を超えて、もつとはるかに広く及ぶやうになると思ふ。

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