愛情深い、自己中心的な私
人生に特別な相手が現れて自分が満たされたと感じる、というのは非常にロマンティックだ。だが、人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことではなく、「完全な自分」――つまりほんとうの自分という存在を丸ごと――分かち合う相手をもつことだ。… 人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。… 最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。 (『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
この神の言葉の、特に最後の一文はちよつと過激です。ニールもそのことを率直に指摘すると、神はかう答へます。
「いや、よく考へてみなさい。決して過激ではない。自分をほんとうに愛してゐないのに、相手だけをほんとうに愛することができるだらうか」
我々は人生でいろいろな人間関係を築きます。それをできるだけ有意義で実りある、喜びの大きいものにしようとするなら、この神の言葉をよく考へてみる必要があると思ふ。
我々のふつうの思考はかうでせう。
「正しく相手を愛することができれば、相手は私を愛してくれるだらう」
つまり、相手への愛情を通じて自分への愛情を求める。愛のやり取りをさういふ順序で考へる。しかしこれは勘違ひだといふのです。
相手に何かを与へてこそ、相手からも何かが返つてくる。この考へのどこがおかしいのでせうか。
気高い人間関係を作らうとするなら、まづ相手のことを考へ、自分から与へなければいけない。授受作用の原理もさう言つてゐるやうに思へます。
しかし、こゝで慎重に考へてみませう。
相手に何かを与へると言ひますが、自分を愛してゐない私が一体どんなものを相手に与へることができるでせうか。自分が満たされてゐない(と感じてゐる)のに、私の何を相手に惜しみなく与へることができるでせうか。
我々が人間関係を結ぶ目的は、私が相手に満たしてもらふためでもなく、また私が相手を満たしてあげることでもない。すでに満ちてゐる「完全な」お互ひを「分かち合ふ」ことだ。さういふ「分かち合へる」相手をもてることが、人間関係の素晴らしさだと、神は言つてゐます。
こゝで疑問が生じます。
「私は一体『完全な者』なのだらうか? 満ちてゐる『完全な者』などこの世にゐるだらうか?」
聖書に、
「天の父が完全であられるやうに、あなたがたも完全なものになりなさい」(マタイ福音書5:48)
といふ聖句があります。
天の父が完全であるのは何となく認めるとしても、私が完全な者になることなど可能でせうか。そもそも「完全な私」とはどんな私でせうか。
しかし一説によると、これは原語からの誤訳であつて、「完全」の原意は「全体」に近いとも言はれます。その意味に解するなら、
「天の父が全体であられるやうに、あなたがたも全体のものになりなさい」
といふことになる。
それと同じやうに冒頭の神の言葉を解すれば、「完全性を分かち合ふ」とは「互ひを丸ごと分かち合ふ」といふふうに理解できます。
さうすれば、人間関係における気がかりは
「相手にどのやうに気に入られて、私が欲するものをもらへるか」
といふことではなく、
「いかにしてより良い自分を相手と分かち合へるか」
といふことにシフトするでせう。
筆者自身、これまでずいぶん人間関係に思ひ悩んできました。しかし上のやうに考へると、人間関係に新しい視野が開けてくるやうな希望を感じます。
相手とどんな自分を分かち合へるか。それは相手が現れるまで、自分にも分からないのです。
自分が一人でゐるときには、自分が何者であるのか分からない。相手が現れてこそ、自分に自分が見えてくるのです。
目の前に妻が現れてこそ、「夫」としての私がはじめて見えてくる。「こんな夫らしい要素が私にあつたのか」と。そのとき、自分独自では味はへない悦びがあり、成長がある。
これは万物の根源である神も同様でせう。ご自身だけで自存するときには、神も自分が何者であるのか分からない。だから万物を創造してみる。その万物を相手にして見てはじめて、神も自分が見えてくるのです。
ただ、我々は従来、「自分といふ存在」を「丸ごと」分かち合ふことがなかなかできなかつたと思ふ。「正しく与へないと、正しくもらへない」といふ観念にあまりにも縛られてゐました。
「正しく与へよう」といふ観念が強すぎて、丸ごとの自分を相手の前に差し出すことができなかつた。お互ひに「部分的な自分」しか出せなくて、その結果、表層的な人間関係に留まるのです。だから人間関係の本当の喜びも味はへない。
確かに我々はもつと、相手と惜しみなく分かち合へる「愛情深い、自己中心的な私」になるやう努力すべきだと思ふ。

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