無敵の人
天下無双の剣豪と言へば、日本では何と言つても宮本武蔵でせう。彼はその生涯で、名の聞こえた数十人の剣豪と真剣の果し合ひをして、無敗だつたとも言はれる。
文字通り「無敵」の剣豪です。
有名な彼の肖像画を見ると、彼は両手に刀を握つてゐる。ところがその手は下方にだらりと垂れてゐて、何の構へもない。誰かとこれから一戦交へるといふ姿にはまつたく見えないのです。

しかしこの立ち姿を彼は、
「構へあつて、構へなし」
と言つてゐる。
どんな形で切り込まれてきても、瞬時に対応し、切り返すことができる。それがこの両手をだらりと垂らした「構へ」だと思はれます。
「無敵」と言へば、ふつうには「向かふところ敵無し」。誰にも負けない強さを意味するでせう。
ところが一説には、「無敵」とは「誰にも負けない」といふ意味ではない。「敵」がそもそも「存在しない」、つまり「闘ふ相手がゐない」といふことだと言ふのです。
これはなかなか面白い説だなと思ふので、我々の日常に沿つて考へてみようと思ひます。
闘ふ相手がゐるときに「構へ」が出てきます。日常で言ふ「構へ」とは、先入観のことです。
誰かと相対するときに、
「この人は、かういふ人だらう。こんなふうに考へてゐるだらう」
といふやうな先入観を、我々はたいてい持つものです。
その先入観をもとに、相手との対し方を考へる。
我々はなかなか先入観なしにどんな人も見ることが難しい。さういふ対し方を「構へ」と考へることができます。
しかし私が「無敵」な人であれば、誰とも闘はないのですから、「構へ」ははなから必要ない。といふより、理屈は逆です。私に「構へ」(先入観)がないので、「敵」が存在しない。
これまで仲の良かつた人が、ある時から俄かに「敵」に変貌していくことがあります。例へば、これまでは仲が良かつたのに、あるとき相手の一言に傷ついて、その人を受け容れられなくなる。
「この人は、私のことをこんなふうに考へてゐたんだ」
といふ観念が生まれ、それがその相手のイメージになる。そして、接したくない「敵」になる。
「構へ」(先入観)といふのは「敵」と闘ふための所作ですから、「この相手は無条件では受け容れませんよ」といふ心の姿勢です。「敵」は当然、私への「敵意」「悪意」を持つてゐる。さういふ「敵」に対して隙を作らず、攻め込まれまいとして「構へ」るのです。
こゝで「無敵な私」になるには、どうしたらいゝでせうか。
相手には「敵意」も「悪意」もないと見定めることです。
もし「悪意」があるのなら、その「悪意」から、私を傷つけようとしてひどい一言を発したのに違ひない。その結論がすぐに出ます。しかしもし「悪意」がないのだとしたら、その人はなぜそんな一言を発したのだらうか。さういふ見方に転換されるでせう。
「この人には『悪意』はない。ある意味では『完璧な人』だ。その人がどうしてこんな一言を発せざるを得なかつたのだらう? どんな事情と苦しみがあつたのだらう?」
こんなふうにも考へてみることができます。
私が推察するに、神といふ方はかういふ見方をする方ではないかと思ふ。どんなおかしな(やうに見える)振る舞ひをする人でも、「この人の本質は『完璧』だ」と見る。
そして
「完璧なのに、こんな振る舞ひをするには、それなりに難しい事情があるに違ひない」
と、相手の内情を正しく理解しようとする。
だから恐らく、神は「無敵」なのです。「無敵」な人に闘いひを挑む人はゐない。むしろ、心を開いて自分の事情を打ち明けようと思ふでせう。

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