「甘受」から「機会」へ
最近の記事で何度か
「『義務』はない。『機会』があるだけだ」
といふ神の言葉について考へてゐます。
私は教育部長だつた最後の数年間、原理講義をするときに「復活論」を強調するやうになつた。「復活論」の中でも、特に「悪霊の再臨復活現象」です。
こゝに「甘受」といふキーワードが出てきます。悪霊が直接間接に与へる「苦痛」を「甘受」することを通して蕩減条件が立つ。その条件をもつてその人も悪霊もともに復活するといふ原理です。
ところが、「甘受」といふと、どうしても受け身的な響きがある。だから講義のあと、受講者から
「運命を抵抗せずに全部受け入れなさいといふことですか?」
とよく訊かれたのです。
ただ受け入れるだけなら、敗者のやうな感じがする。人生はもつと能動的に克服すべきものではないか。「甘受」といふ言葉には、どうしても弱々しい感じが伴ふのです。
しかし「機会」といふ視点を考へてみると、これは結局「甘受」といふ要素を含んでゐます。さうでありながら、「創造」といふ積極的な要素もある。といふことは、「甘受」を「機会」と言ひ直せばいゝのではないかと思ふのです。
少し具体的に考へてみませう。
悪霊の再臨現象で言へば、そのとき地上人に苦痛が生じる。例へば、身近な誰かから謂はれない誤解を受けたとしませう。それが私にとつての「苦痛」です。
その「苦痛」を甘受する。つまり、謂はれない誤解を当然のこととして、喜んで受け入れる。するとそのときに蕩減条件が立つて、私自身の罪か、あるいは歴史的な罪が(部分的に)清算される。
「甘受」の仕組みはさうなのですが、これを「機会」といふ観点で見直せばどうでせう。
謂われない誤解を受けたといふのは、私にとつてこの上ない「機会」でもある。どういふ「機会」か。私がその問題を包摂し、より成熟した人間、より「生命の木」に近い人間に自己創造していくことのできる天与の「機会」なのです。
すると、さういふ「機会」が与へられたことは、私にとつてむしろ有り難い。その「機会」がなかつたら、私はより高いレベルへの自己創造ができなかつたはずですから。
さう考へると、一つの現象が「苦痛」になるか「機会」になるかは、私の意識次第とも言へます。
「どうして私だけにかういふ問題が起きるのか」
と受け止めれば、その現象はただ単なる「苦痛」で終はるしかない。
しかし、
「私が誤解を受けた(と私が思ふ)のは、私の中に誤解を受ける原因があるからではないのか」
と慎重に考へれば(甘受すれば)、その現象は私の成長を促す「機会」になるのです。
実際、現象の原因は必ず私の中にあると思ふ。「苦痛」といふのは、その原因が私の外にあると考へるときに、より強く生じるのではないか。
私自身、母の介護をしながら、それを感じるときがあります。
母の食事の世話をし、下の世話をしながら、母が突然文句を言ひ、大声を出すことがある。急に動かすと驚くこともあり、痛がることもあるのです。
さういふとき、1年前の私なら、咄嗟に大声で言ひ返してゐた。扱ひもつい手荒になる。世話をしてやつてゐるのに、少しくらゐ我慢してくれといふ気持ちで腹が立つのです。
ところが最近は、気がつくと、ほとんど大声で言ひ返さない。「悪かつたね」と言ひながら淡々と接すると、必ずしばらくして母は落ち着く。そして最後に「有り難うね」といふ言葉が出るのです。
ときどき知らぬ間にベッドから降りて、床にウンチをしてゐることがある。オムツからはみ出して、布団がウンチだらけになることもある。
かうなると部屋中にウンチ臭が蔓延する。これも以前はいや~な気分になつたものだが、最近は「またやつたな」と思ふくらゐで、淡々と片づける。
私にとつて、かういふ一つ一つの出来事が自己創造の「機会」になつてゐるなと思ふのです。

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