目指すゴールは、「私の幸せ」
前回の記事「義務と機会」で
「他との関係において、義務は一切ない」
といふ神の言葉を紹介しました。
そのこととも関連があるやうな気がするので、前にも一度ご紹介したことがある夫婦問題カウンセラーのアドバイスを再び取り上げてみます。
夫婦にはさまざまな問題が起こる。仲がこじれる。会話がなくなる。どちらかが浮気をする。離婚の危機に陥る。…
問題の形はいろいろ違つてゐても、大切なことはいつもただ一つだとカウンセラーは言ふ。
「目指すゴールは、『自分の幸せ』」
もう少し具体的に言ふと、
「自分一人でも、どれだけ幸せといふ状態を作れるか」
といふことです。
カウンセラーによれば、夫婦の仲が良いとか、子どもとの関係が良いとかいふことは、自分が幸せであるといふ状態を目指す過程で起こる副次的なことに過ぎない。言ひ換へれば、自分が幸せであるといふ状態を目指すと、夫婦関係、親子関係が良くなる可能性が高くなると期待できる。
だから、関係をよくするためには、何としても「自分の幸せ」を目指すべきだとカウンセラーは言ふ。しかし、この点は慎重に考へる必要があります。
普通に考へれば、夫婦仲を良くしようとするなら、「相手の幸せ」を優先的に目指すべきではなからうか。自分を優先すればするほど、相手は私に腹を立て、関係が悪化する恐れがある。そんな気がします。
ところがもう少し突つ込んで考へると、単純に「相手の幸せ」を願へばいゝといふものでもない。「どんな私」が「相手の幸せ」を願へば、本当に相手は幸せになるか。それが問題です。
例へば、私はイライラしてゐる。私は自分のやることに押しつぶされさうな気がしてゐる。不平不満が溜まつてゐる。顔には笑顔がない。どう考へても、私は幸せではない。
さういふ私が「相手の幸せ」(だけ)を願つたら、どうなるだらう。否、そもそも、そんなことを願へるだらうか。
さういふ私と一緒にゐて、相手は幸せになれるか。難しいでせう。「相手の幸せ」とは何かと考へれば、結局「幸せな私と一緒にゐること」なのです。
「幸せな私」とは、一緒にそばにゐたいと相手に思はせる私です。さう考へると、相手を幸せにしようとすれば、まづ私自身が幸せである必要がある。
私が幸せになればなるほど、相手は私と一緒にゐたいと思ふ。すると、自然と夫婦の仲は良くなる。
だから確かに
「目指すゴールは、『私の幸せ』」
といふことにならざるを得ないのです。
さてそれなら、問題は、どうしたら私が幸せになるか。こゝに行き当たります。
あらゆる関係において「義務」はない。あるのは「機会」だけだと神は言はれた。とするなら、私が幸せにならうとするプロセスで課題(障害)に見えるものはすべて、我慢したり避けたりしないほうがいゝ。むしろ、幸せになるための「機会」として捉へるのです。
「義務」がないとすれば、いろいろな「べき」は捨てるのがいゝと思ふ。
夫はかうあるべき。妻はかうあるべき。親はかうあるべき。さういふ「べき」を捨てる。
そして
「私は、どんな私を創造したいのだらう」
と自問してみる。
相手の態度を見てイライラする私。不平不満を溜め込む私。気が済むまで批判する私。さういふ私になりたい訳ではないはずです。
イライラしさうなとき、それを平安な私を創造する「機会」と考へる。不平不満をが湧いてくるとき、それを感謝する私を創造する「機会」と考へる。批判したいとき、それを相手を受け容れる私を創造する「機会」と考へる。
「義務」から「機会」への視点の転換。これは最初、なかなか容易ではないでせう。しかしこの営みを継続してみる。それは確実に「幸せな私」の創造プロセスになるでせう。

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