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「義務」と「機会」

kitasendo
機会

義務ではなく機会、それが宗教の要石であり、本質的ないのちの基盤である。そこを逆に考えているかぎり、いつまでたっても肝心なことがわからないだろう。
(『
神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ)


この世には義務が溢れ、我々はそれに縛られてゐる。さう思つて暮らしてゐます。

日本国憲法も「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」を定めてゐる。結婚すれば、夫としての義務、妻としての義務があり、子どもが生まれれば親としての義務も付け加はる。

雇用契約を結んで会社に入れば、従業員としての義務が課せられる。地域のコミュニティでも、共同で参加すべき種々の義務がある。

我々はおよそ、義務のない関係を考へることができない。しかし神は、あらゆる関係において義務は何もないと言ふ。そして、あるのはただ機会だけだと言ふのです。

この視点の転換をしない限り、我々はいつまでも我々のいのちの本質を悟ることができない。これはどういふことでせうか。

聖書には代表的な「戒め」が2つあります。

一つは、神が人間始祖に与へたと言はれる「取つて食べるな」といふ戒め。もう一つは、中東のシナイ山で40日の断食をしたモーセに与へた「十戒」と呼ばれるものです。

最初の戒めには、
「取つて食べれば、必ず死ぬ」
といふ警告が続いてゐる。

十戒の中には、
「いかなる偶像も作つてはいけない」
といふ禁止義務もあれば、
「父母を敬へ」
といふ行動義務もある。

戒め(神の指定する義務)を履行しないと恐ろしい結果が待ち受ける。神の恩寵も受けられない。戒めといふ義務に縛られて、何だか重苦しい感じがします。

しかし「他との関係において、義務は何もない」と言ふのですから、それなら神との関係においても義務はないはずです。とすれば、これらの戒めとは一体何なのか。

これは神からの「機会」の提供であり、謂はば「言質」だと言へます。「約束」と言つてもいゝ。

例へば、
「取つて食べるな」
といふ戒めは、実は禁止義務ではなく、
それができるなら、私にはあなたのために密かに準備したものがある
といふ神の約束だと受け取ることもできます。

すると、戒めは確かに義務ではなく、神からの「機会の提供」だと言つてもおかしくない。その「機会」を活かすか逃すか、それは我々の手に委ねられてゐる。神はいつさい強制されない。

我々の人生は大小さまざまの「選択」によつて成り立つてゐます。その「選択」を「機会」と思はず、「義務」と捉へてしまひやすいとすれば、それは我々の意識を反映してゐると言はねばならない。

「私は与へられた何らか
の『義務』なしには、善を為せない。特定の選択を強制されなければ悪に流れてしまふ」
と心の中で思つてゐる。自分自身に自信を持てないのです。だから、つい「義務」といふ観念に頼つてしまふ。

「義務」と「機会」と、何が違ふのでせうか。

「義務」は自ら自由を放棄することであり、一方「機会」は自分自身を創造することです。創造することによつて、神の「約束」が自分の中に成就顕現するやうになります。

お母さんが家族の食事を作ることを「義務」だと考へれば、辛くなる。「どうして私だけが…」といふ不満も出てくる。

しかしその同じ行為を「義務」ではなく、「機会」と考へればどうでせう。家族の世話をする立場に「選択」的に立つことで、お母さんは自己を「創造」するやうになります。

これに気づくと、今の自分の立場をおいそれと他の人に譲る気にはなれない。その立場を「機会」として与へてくださつた神への感謝も湧いてくるのです。

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