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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

それぞれの「世界の定義」

2021/09/18
読書三昧 0
原理講論 キリスト教
世界観


聖なる予言』(ジェームズ・レッドフィールド)の主人公がペルーへ向かふ飛行機の中で1人の歴史学者と同席します。彼はニューヨーク大学の歴史の助教授ウェイン・ドブソン。

2人は初めて偶然に会つたにも拘はらず、同じ目的でペルーに向かつてゐることが分かる。話が弾み、ペルーに到着後も行動を共にする約束をします。

ドブソンが話した歴史の見方が興味深いので、ご紹介し、少し深読みしてみます。

∥中世における世界の定義


彼は長い間、間違つた方法で歴史を学んできたと打ち明ける。つまり、文明の技術的な成果と、その進歩をもたらし偉人にだけ焦点を当てて歴史を見てきた。これも悪くはないが、もつと重要なことがあることに気がついたと言ふのです。

それが何か。各時代の世界観、人々がその時代に何を感じたり考へたりしてゐたかといふことなのです。具体例として、彼は西洋における過去の千年紀について語り始めます。

紀元1000年。西洋では「中世」と呼ばれる時代です。

その時代に生きる人々の「現実」はどんなものであつたか。それは、キリスト教会の権力者によつて定義されてゐたのです。その世界観は宗教的なものであり、生活の中心に神の人類に対する計画があるといふものだつた。

神は人類を宇宙の中心に置き、その周りを宇宙全体が取り囲んでゐる(所謂「天動説」)と説明する。その位置で、人生の第一の目的とは、宗教的なテスト(試練)に合格することです。

この試練では、2つの相反する力、つまり神の力と悪魔の力のどちらかを間違はずに選ばなくてはならない。正しく選べば魂の救済を得て、報われた死後の生活が保障される。しかしもし間違へば教会から破門され、天罰が下る。

しかしこの試練に、中世人は1人で立ち向かふわけではない。自分の人生でありながら、正しい選択をしてゐるかどうかを判定するのは自分ではない。それは聖職者の役目なのです。

聖職者だけが経典を解釈する。そして人々が神の言ひつけに従つてゐるか、悪魔に魅入られてゐるかを判断するのです。

この時代は、あらゆることが宗教的な言葉で定義されてゐた。

人生のすべての現象、例へば地震でも病気でも、作物の出来不出来でも人の死でも、あらゆることが神の意思か悪魔の所業かのどちらかなのです。地球の構造、ウイルス、地質などと言つた概念は存在しない。それらはづつと後の時代になつて出来上がつたものです。

∥中世の世界観が崩壊し始める


ところが、14世紀から15世紀にかけて、中世の世界観が崩壊し始める。それまで自分の救済を左右できる唯一の存在だと思つてゐた聖職者たちの不正がだんだんと明るみに出てきます。

ウィクリフやフスは弾圧されたが、ルターの改革運動は成功する。教会は力を失ひ、信用も失墜する。聖書は聖職者の占有から解放され、各自が解釈してよいといふことになる。ところがその結果、人々は「疑問の海」へ投げ込まれたのです。

宇宙は実際のところ、どのやうに運行してゐるのか。我々の人生の本当の目的は何なのか。死後の世界はあるのか。死後の救ひや天罰は本当にあるのか。今まで当然だと思つてゐたすべてのことを、新しく定義し直す必要に迫られるやうになつたのです。

天文学者はそれまで信じられてゐた天動説が間違つてゐることを完全に証明した。地球は宇宙の中心ではない。何十億といふ星をもつ銀河系宇宙の中の太陽といふ小さな星の周りを廻つてゐる一つの小さな惑星にすぎないことが分かつた。

かうして近世が始まります。

宗教的な信念や推測に基づく宇宙や人生の定義は、もはや自動的には受け入れられない。宗教的な確信は失はれた。しかし、宗教に代はつてこの世界を定義し直してくれるものが他にあるか。

宗教に代はつて何らかの統一的見解を作るために、この世界を系統的に調べる別の方法が必要だ。さう考へた人々は、「科学」と呼ばれる手法を考へ出した。

この新しい手法は、宇宙の動きに関する考へ方をまづテストする。その結果に基づいた推論を出し、その推論に他の人が賛成するかどうかを見る。それを繰り返しながら、新しい知見を積み上げていくのです。

かうして人類は(西洋を中心として)わづか400年間で生活のあらゆる快適さを生産できる世界を作り出した。1000年前には想像もできない世界が出現したのです。

∥人それぞれ、世界の定義は違つてゐる


このやうに過去の千年紀を俯瞰してみると、今の我々が生きてゐる時代は1000年前と「世界の定義」が大きく違つてきてゐることが分かります。

今の我々から見れば、1000年前の人々は頑迷な宗教的偏見に満ちてゐたやうにも見える。この世の現象は神の意志と悪魔の所業で展開するのではない。科学的に解明できる普遍的な法則によつて起こつてゐるのだ。

我々はさう見るかも知れない。しかし、中世の人には彼らなりの世界観があつて生きてゐたのです。それが一概に劣つてゐたとも間違つてゐたとも、軽々には言へないやうな気がします。

ここで話頭を転じます。

時代を1000年前まで遡るまでもなく、現代においてさへ、我々はすべてそれぞれの世界観、世界の定義をもつて生きてゐる。「世界の中の私」といふ見方をすれば、あらゆる人は同じ一つの原則で動く共通の世界に生きてゐるやうに見えます。しかし実のところ、それぞれの人はみな「私の中の世界(私独自の世界の定義)」をもつて、その中に生きてゐる。私にはそのやうに見えるのです。

例へば、人はよく「保守だ、リベラルだ」と言ふ。リベラルを自称する人は保守と思はれる人を批判し、保守を自認する人はそれに対して反論する。

互ひに自分の意見をもつて相手を説き伏せようとするのですが、これはほとんど功を奏さない。なぜかと考へてみると、お互ひは別々の世界の定義で生きてゐる。それぞれの「私の中の世界」の構造が違ふのです。

例へてみれば、21世紀の人が10世紀の人に向かつて
「雷や地震は神の怒りではありませんよ。これこれの物理法則で起きてゐる自然現象です」
と言つて説得しようとする。

しかし10世紀の人は
「雷や地震に神のご意思がないと、あなたはどうやつて証明できますか」
と反論するでせう。

これはどちらか一方が正しく、他方が間違つてゐるといふやうな話ではない。ただ、お互ひに何かを忘れてゐる。気づくべき何かに、まだ気づいてゐない。そんな感じがします。だから説得はできない。

その点を『原理講論』はその総序で
「いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである」
と主張してゐます。

本当にこれが現れれば、かなり理想的な「世界の定義」ができさうに思へます。

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なるほど、小林秀雄2
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