信仰といふ名のイデオロギー
あなたがたの宗教は神を偉大な謎にして、神を愛するのではなく、神を恐れさせている。宗教はあなたがたの行動を変えるのにほとんど役立っていない。あなたがたはいまも殺しあい、非難しあい、「間違っている」と相手を糾弾する。… だから、わたしの観察によれば、宗教はあなたがたのめざすところではなく別の場所に連れていく。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
駐留米軍が撤退するや否やアフガニスタンを実効支配したタリバン。タリバンとは何者か。現在のタリバンを構成するメンバーがどんな経歴の持ち主なのか、詳細なことは知らないが、タリバンの原義は「神学生たち」といふものだと聞いてゐます。
タリバンの原型はイスラム教の神学を学んだ学生たちが作つた。その神学の詳細もよくは知らないが、それが現実の政策に現れると、娯楽を禁止し、女性にはブルカで顔をすつかり隠させ、男性には髭をはやさせる。とにかくイスラムの神には、さまざまな厳格な決まり規則があるやうです。
私は30代に米国でキリスト教神学を少しかじつたことがあります。そのとき、聖書学の先生であつたか、聖書の文献的批評を講義しながら、
「皆さん、知つてゐますか? 現在、神学を学んで聖職に就いてゐる人たちの8割は神を信じてゐないんです」
と教へてくれたのです。
神を学ぶ神学を修めれば修めるほど、神を信じなくなる。一見意外な感じがするものの、あり得ないことではないとも思へる。
新約聖書に福音書が4つある。それらを文献的に調べていくと、それらの元になつた資料がいくつかあるらしいことが分かる。そして調べれば調べるほど、イエスが語つたと思はれる真正な言葉は全体の数%しかないといふやうな結論に至るのです。
すると聖書の「聖」なる見栄えは色褪せ、俗なるものに見えてくる。イエスが教へたやうな神は本当におられるのか。疑問が大きくなる。そんなふうにして、神学を学ぶ前の純粋な信仰は薄れ、ものの見方が現実的になつていつたとしてもおかしくはない。
それにしても、神を信じなくても聖職者は務まる。その人は教会で一体何を教へるのだらうか。
そんなふうに考へたものです。
しかし最近思ふのは、
「神学は元々神について教へてゐるのか」
といふことです。
イスラム教にしろキリスト教にしろ、神学は神をありのままに教へない。神学が教へるのは
「神とはかうあるべきものだ」
といふ人間の理解ではないか。さういふ疑念があります。
神は娯楽を避けるやうにと命ずる。女はブルカをかぶれ。男は髭をはやせ。
神は罪を憎み、それがあるままでは天国の門を開けない。告解をせよ。免罪符を求めよ。
神学は人間の知恵と理解の範囲の中で神を解釈し、規定しようとする。そして、その神を信じ、その神に従へと促すのです。
ところが、そんな神を信じようとすれば、神学生はタリバンにもなり、神を信じない聖職者にもなる。無理からぬことにも思へます。
それなら、神学校を卒業した学生が
「私は神を信じる」
といふのと、
「私は神を信じない」
といふのと、どちらがいゝのか。即断はできないやうな気がする。
さう考へると、「神を信じる」といふのは存外難しい。「信じる」のが難しいといふより、「どんな神を」といふところが難しいのです。
「神を信じる」人が自分の信じる神を人に押しつければどうなるか。今のタリバンのやうになる。
強制があるところに信仰はないでせう。「信仰」とは名ばかりで、それは一つの「イデオロギー」といふべきものです。

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