神はプロセスである
はじまりは神である。終わりは行為である。行為は創造する神、あるいは体験された神である。 一瞬一瞬に神は自らを表現している。それはあなたがたを通じて行われている。あなたがたは、神がどう創造されるかをつねに選択している。 わたしがあなたを創造したのは、あなたがわたしを再創造できるようにするためにである。これが私たちの聖なる仕事である。これがわたしたちの存在理由である。 わたしはプロセスの結果ではない。プロセス自体だ。わたしは創造者で、自分を創造するプロセスだ。あなたが天と地で見るすべてはわたし、創造されているわたしだ。創造のプロセスは決して終わらない。私は決して「完了」しない。 唯一、変わらない真実とは、神はつねに変化するということだ。 現在の価値観や概念、理解のなかで考えていては、神は理解できない。神を理解したいなら、すべてを知っているなどと思わずに、いまは限られたデータしかないことを認めなければいけない。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
神自身が「神とはいかなる方か」について言及された箇所をいくつか引用してみました。正直に言つて、とても分かりにくいですね。
それで結局、最後の引用にあるやうに
「今のままでは神を理解できない。データが限られ過ぎてゐる」
と言はれる。
「データが限られてゐる」とはどういふことでせうか。
- 第一に、我々が何かを知覚するには、五感しかない。
- 第二に、脳の働きを土台にして理性的に考へようとするが、脳は情報の処理センターに過ぎない。
- 第三に、我々の観念は時間と空間の枠の中で働くのに慣れてゐて、その外に出ることが難しい。
- 第四に、神について言葉で説明を受けても、我々の操る言葉にはさまざまな制約がある。
今回『神との対話』の3部作を通して読んでみました。日本語版で約1000ページになります。通読してみて、私の(頭の)中が相当かき乱されました。しかしこの混乱は、間違ひなく心地よい混乱です。
神についていろいろ学んだとしても、我々の理解は自分の持つてゐる器以上のものにはならない。時空の外におられる神が時空の中にいる者に向けて、時空の中の言葉を使つて神とこの世の在り方をを伝へようとするのです。それはあまりにももどかしい。
そのことは神の言葉の端々から、よく感じられます。
だから神は、器以上のものを無理に求めようとはされない。ただその器を徐々にでも大きくすることを願はれてゐるやうに思ひます。
現状の器で、おぼろげに分かる気がすることだけ記します。
神は「このやうな方だ」といふ、ある固定された無変化の方ではない。神自身の表現で言へば、「プロセス自体」の方が神なのです。
神は創造主として我々を創造された。その目的は、創造された我々によつて神ご自身が再創造されるためなのです。
創造した主体が、今度は創造した対象によつて再創造される。最初は神が創造主であり、次には我々が創造主になつて神を(より発展した姿に)創造する。一見おかしな、筋の通らない話のやうでありながら、その実、創造の奥義を垣間見るやうな気がします。
我々の日々の生活が、日々新しく神を再創造し続けてゐるのです。そのやうに再創造されるために、神は我々を創造した。だから日々我々が見るもの体験するものが、再創造された神なのです。
神は創造主であり、我々は被造物である。さういふ固定された関係ではない。神は我々が想像するよりも、はるかに融通無碍な方のやうです。創造主が交互に入れ替はり、お互ひで円環を作る。神と我々とは、さういふ関係にあります。

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