三度私を否定するだらう
親愛なる者たちよ、わたしはいつもあなたがたとともにいた。あなたがたから離れたことはない。わたしはあなたであり、あなたはわたしであって、わたしたちは決して離れない。それは不可能だからだ。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) そら、ごらん。いいかね。「オンドリが鳴く前に、あなたは三度、わたしを否定するだろう」。あなたの考えによって、わたしを否定する。あなたは言葉によって、わたしを否定する。あなたは行為によって、わたしを否定する。 (同上) |
「あなたがたから離れることは決してない。それは単なる誓ひではなく、そもそも不可能なのだ」
と神から言はれたら、どんな気分でせうか。
私のことを誰よりも理解し受け容れてくださる方が、いつも私と一体であるなら、何よりも安心であり、癒される気がするでせう。
今日私がふと思つたことは、もしかしたら神のインスピレーションかも知れない。今日親しい人と会つて交わした会話の中に、神が聞きたかつた話題があつたかも知れない。
もし後になつて神と話すことができる機会があつて、
「あのときあなたがふと思つたことは、私がちよつとしたルートで吹き込んであげたアイデアだつたよ」
と打ち明けられたらどうだらう。
私はどんなときも神と無関係に考へることはなく、神と無関係に行動することもない。さう考へれば、私自身の何気ない日常も貴く感じられるのではないでせうか。
ところがその一方で神は
「オンドリが鳴く前に三度あなたは私を否定する」
とも言はれる。
これはどういふことでせうか。
かつて十字架の苦難が迫つたとき、イエス様は第一弟子であるペテロに同じことを言はれました。そのときペテロは激しくそれを否定したものの、結局はその予言どおりになつたのです。
「私はあの方を知らない」
と三度も言ひ逃れをしてしまつた。
それと同じやうに、
「あなたから決して離れることはない」と言つておられる方を、今の私も三度否定する。その考へで、その言葉で、その行為で。
「私が今日感じること、考へることに、神様が関はつておられるなど、あり得ないだらう。神様はそれほど暇ではない」
と考へ、自分勝手な考へに耽る。そして自分の考へを神に委ねようとはしない。
ペテロも私も神を信じてゐないのではない。ただ、信じてゐるとしても不即不離の神ではなく、自分とは遠く離れたところにゐる神を信じてゐるのです。神が私から遠いところにゐると思へば思ふほど、私は自分の真実からも離れるのです。

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