「解釈」を変へる
人生はどのやうに動いていくものか。その仕組みを少し分析してみようと思ひます。
冒頭の図は、人生の循環を表してゐます。「出来事」から「行動」まで5段階の工程があり、その内「解釈」から「思考」までの3つは私の内面で進む工程です。
①まづ、何らかの出来事が起こる。
②その出来事の意味や理由などを私が解釈する。
③その解釈によつて、それに対応した感情が生まれる。
④感情に基づいていろいろな考へが生まれる。
⑤そして考へに沿つて行動すると、その結果として次の出来事が生じる。
これが一つのサイクルとして、一つのサイクルが次のサイクルを生む。さうやつて人生が回つていくと見ることができます。
私にとつて、嬉しく、得になる「出来事」ばかりが起つてくれれば、それに越したことはない。しかし人生はそんなふうにいかないものです。
それで我々は大抵、「出来事」にぶつかつて悩むのです。
「どうして一生懸命努力したのに報われないのだらう。どうして私の夫は優しくないのだらう。どうして意地悪な上司のゐる部署に配属されたのだらう」
といふふうに。
「私の何が問題なのだらう。私のやり方がおかしいのか。それとも先祖の因縁が悪いのか」
などと悩んで、占ひに診てもらふ人もゐれば、哲学書を開く人もゐれば、教会やお寺の門をたたく人もゐるでせう。
運が良ければそこで、問題は「出来事」ではないことを悟る。本当の問題は「出来事」ではなく、自分の「解釈」にあつたといふことに気づくのです。
「さうか。『出来事』それ自体は、単なる現象に過ぎない。それを『これは良い、あれは悪い』と私が勝手に『解釈』してゐただけだ。謂はば、無色な『出来事』に自分なりの基準で色づけし、その上で自分の好きな色だけを受け容れようとしてゐた。それが悩みの元だつたのだ」
このやうに気づけば、悩みの解決に光が見えます。「出来事」は変へられなくても、「解釈」は変へられる。辛いと思つてゐた「出来事」も、「解釈」さへ正しく変へれば有り難い「出来事」になり得る。
幸いこの世には、宗教をはじめとして、それ以外にも、いろいろな良い「解釈法」があります。
「人生は魂を高める修業のプロセスです。今世で完全に修業が完了しなくても、幾度でも生まれ変はつて挑戦ができます」
「艱難はあなたを玉にします。どんなときも主を信じれば最初の復活に与り、天国を逃すことは決してありません」
「神はあなたに悪霊を送つて苦痛を与へることがあります。あなたがその苦痛を甘受すれば、蕩減条件が立つて復活の恩恵があります」
「解釈」のサンプルは一つではない。これだけが正しいといふことはないでせう。自分に合ふ「解釈」を選んで、それで人生のサイクルが改善できれば、悪いことではないと思ふ。
ただ一つ、気がかりなことがあります。
「解釈」を理解するのはいゝのですが、本当に心の底からその「解釈」ができるやうになるだらうか、といふことです。学べば、頭で理解することはできる。しかし理解はしても、心霊的に「腑に落ちる」とは限らない。
「解釈」は私の意識だけがしてゐるのではない。むしろ意識は脇役で、「解釈」のほとんどは無意識が担当してゐるやうな気がします。
学びの多くは言葉を介してなされる。言葉は頭に入つて意識を改変することができる。しかし無意識はあまりに深くて、言葉を寄せつけないところがあると思ふのです。
「精一杯頑張らう。信じて行かう。希望を持たう」
とはよく言ふが、無意識を着実に変へる方法はあまり聞かない。
宗教では「信仰」とか「信心」といふものが強調されます。「信仰」とは何を信じるのか。本当はこの無意識を変へる点にピントを合はせるべきものではないかと思ふが、実際には主として自分の外にある何者かに目が向いてゐるやうな気がします。

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