私は、有つて有る者
モーセが40年間の荒野生活の後、イスラエル民族の解放者となるべく神によつてエジプトに遣はされようとするとき、モーセが神に尋ねます。
「私がイスラエルの人々のところへ行つたとき、『あなたを遣はした方の名は何といふのですか?』と聞かれたなら、何と答へたらいゝのですか」
そのときの神の答へが
「私は、有つて有る者」
といふものでした。
「有つて有る者」。これを英語版聖書では、
「I am who I am」
と表現してゐます。
日本語で言つても英語で言つても、何だか分かりにくいですね。分かるやうで、分からない。イスラエルの原語ではどんな表現なのか知らないが、こんな自己紹介で納得させられたものだらうか。
ところで、私はこのところづつと『神との対話』を読んでゐて、ふと思つたことがあるのです。「この英語表現は、なかなか面白い」と。
最初の「I」は神で、あとの「I」は人なのではないか。さう閃いたのです。
あとの「I am」から考へてみます。
「私である」
といふのですが、これは
「私は『私だ』と自覚してゐる」
といふことです。
つまり、人間は自分を自覚する自意識を持つてゐます。この自意識はどこから来たか。神が人に与へたものです。
自意識によつて、人は自分を他のものから分け、自分が意識的に他のものを認識できる。
「私は今、〇〇を見ている」
「私は今、〇〇を感じてゐる」
こんなふうに自分の外界を知覚し、認識できる。そして、それを嬉しいと思つたり、驚いたり、愛を感じたりする。
神はなぜ人間にそのやうな自意識を与へたか。人間の認識を通して神はその世界を認識し、感じたいと願はれたからに違ひない。
別の言ひ方をすれば、人間の感じ方を通して、神はご自分を認識したかつた。
神はご自分を直接的に認識することができない。創造以前において、神以外のものは何も存在してゐないので、その状態では自分を知ることができないのです。
神が「自分は何者か」といふことを知るには、神以外のものが存在し、それとの対比で自分を認識する以外にない。「我」は必ず「非我」を必要とする。そこで自意識を持つた人間を創つた。
そしてその人間が感じる感じ方を通して、
「あゝ、自分はこんな感じ方をするものなのだ」
といふことが初めて分かるのです。
さう考へてみると、「I am who I am」は、
「『私は私だと自覚してゐる』人間(これがwho I am)を通して自分を自覚する者が私である(これが最初のI am)」
といふ意味になります。
当初において創造の主体は、もちろん神であつた。ところが人間を創造した後からは、創造の主体は人間に移つたと見ることができます。
人間は自分の「考へ」によつて「現実」を創り始める。自分をどのやうな人間に創るか。人間関係をどのやうに創るか。自然とどのやうな関係を創るか。
それらは基本的にすべて、人間の「考へ」次第です。そしてその創造のプロセスに、神は介入しない。
人間を第2の創造主にしたこと、その創造には介入しないこと、その創造を通して神自身を知ること。神はそれらを創造目的の中心に置いたのです。
それにしても「I am who I am」といふ自己紹介は難しすぎる。だからもう一つ、分かりやすい自己紹介も神は準備しました。
それが
「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
といふものです。
これも本質的には一つ目の自己紹介と同じことを言つてゐるのですが、具体的な先祖名が入つてゐるお蔭で、分かりやすい気がしますね。

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