誰が運転席に就くか
車で繰り返し同じ道を走つても、いつも助手席に座つてゐる人は意外とその道を覚えない。あるいはまた、しよつちゆう電話をかける相手があつても、その人の電話番号をスマホの電話帳に登録してゐると、決してその番号を空で言へない。
自分のほかに何か頼れるものがあると、人の脳はサボる、といふか、消費エネルギーを最小限に抑えてしまふ仕組みになつてゐる。脳科学の専門的な知識はないが、何となくそんな気がする。
脳の省エネは、生活の至るところで機能してゐます。脳のためには悪くないかも知れないが、結果的に脳が弱体化する恐れもあると思ふ。
以前「宗教の上にあるもの」といふ記事で、
「『国家公務員倫理法』などといふ法律ができると、公務員は倫理的になるか」
と考へてみたことがあります。
結果はどうも逆になるやうな気がする。つまり、「倫理法」を作ると、人はそれ以前よりもわづかながら非倫理的になる。助手席に乗つてゐる人と同じ脳になるのです。
運転席に就くべき人が助手席に座ると、安心して気が緩んでしまふ。上位のものに運転席を与へるべきなのです。
人間の精神活動において、倫理はさほど高位のものではない。法律よりは上だが、道徳よりは下に位置する。道徳の上には宗教があるが、それも最上ではない。宗教のさらに上には「良心」があると思つてゐます。
だから、宗教が支配的になると人の「良心」が低下する可能性がある。宗教が運転席に座ると、「良心」が助手席状態になるのです。
「良心」をつねに最高稼働状態に保つには、「良心」を運転席に就ける。運転席に就くと、つねに前後左右に細心の注意を払つてゐなければならない。「良心」がそのやうな状態になれば、宗教以下のものは助手席で寝てゐても問題ないのです。
さうだとすれば概論的に言つて、法律の多い社会であればあるほど、その社会は善に向かはない。法律の少ない社会、究極的には法律が一つもない社会こそ、最も良い社会、暮らしやすい社会といふことになる。逆説のやうな話が成り立ちます。
この話は法律と社会の問題だけではない。
子どもの教育も、基本的には「良心」を本人の運転席に就ける教育であるべきだと思ふ。「あゝしろ、かうしろ。あれをするな、これをするな」と言ひ続けると、子どもの良心は次第に助手席に安住するやうになる。
言はれれば(嫌々でも)やるが、言はれなければ、やらないでも済む抜け道を探す。親からの信頼がないから、「良心」はすくすくと育たないのです。
私自身の子育てを振り返つてみると、かなり危なかつたなと思ふ。あまりがみがみ言ふほうではなかつたと思ふが、それでも子どもはかうあるべきといふ「原理」の枠が相当ガチつと固かつた。子どもは自分の「良心」がかなり拘束されたらうと思ふ。
親はついつい「あゝしろ、かうしろ」と口うるさくなつてしまふ。なぜさうなるか。本音を言へば、子どもの「良心」をなかなか信じられないからでせう。
子どもの「良心」を本人の運転席に就けてしまふと、脇見運転をして事故を起こすのではないかと恐れる。だから保護してやらうといふ親心から、ついつい自分が子どもの運転席に就いてしまふのです。
子どもの「良心」を信じ切れないといふことを突き詰めると、自分自身の「良心」を信じ切れてゐないのではないかといふ問題にぶつかります。どんな状況でも自分は自分の良心で判断できるか、その良心に従へるか。その自信が100%はない。だから人の「良心」も100%は信じられない。
その結果、下位のものに頼る。宗教に頼り、道徳や倫理に頼る。それも頼り切れないと、最後は法律に頼る。今の日本も、いよいよ法律は複雑すぎて素人には分からないものになつて来てゐるやうな気がする。

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