最高の祈りのかたち
思考のコントロールとは、最高のかたちの祈りだ。だから、良いこと、正しいことだけを考えなさい。否定的なことにこだわり、闇のなかにいてはいけない。たとえ、ものごとが荒涼として見えても、いや、そういうときこそ、完璧さだけを見つめ、偉大さだけを表現し、それから、つぎにどんな完璧さの実現を選択しようかということだけ考えなさい。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
祈りは信仰の世界で最も強調されるものの一つです。確かにそれは重要であり、正しく行へば大きな力を発揮するものとは思ふ。
「祈りは神との対話である」
とよく言はれ、また(恥ずかしながら)自分でもよく講義したものです。
しかし実際には、こちらが語りかけてもほとんど返答は戻つてこない。大抵は一方通行で、対話ではなくモノローグで終わつてしまふ。さういふことが続くと、なかなか祈りの動機を維持することが難しいのを感じてきました。
どう祈ったらいいのだらうといふ前に、そもそも祈りとは何だらう。それに対する神からの回答が冒頭に示されてゐます。ちょつと目が覚めるやうな回答です。
「最高の祈りとは、思考のコントロールである」
とは、どういふ意味でせうか。
祈りとは、膝を折り額を床につけて捧げるだけのものではない。祈祷室に籠つて断食しながら行ふものでもない。1日3分だけするものでもない。
1日24時間、つねに「正しい考へだけをして生活する」。それが最高の祈りだといふのです。
それなら、正しい考へとはどういふ考へでせうか。
「良いことだけを考へ、否定的なことに拘つてはいけない」
と神は仰つてゐます。
他の箇所で神が言つておられることを参考に、私なりに短く要約するとかうなります。
「私に起こる物事の原因は、決して私の外にはない。本当の原因はつねに私の中の『考へ』にある。従つて、偶然に起こることは何一つない」
どんなときもこれを「正しい考へ」として、そこから外れない。それが「思考をコントロールする」といふことです。そしてこれができれば、わざわざ祈祷室で祈る必要はなくなります。
上のやうな「考へ」がなぜ正しいと言へるのか、神の代はりに説明します。
我々が肉身を脱いで霊界(あの世)に行くと、「思考」が瞬時に「結果」として現れるといふ体験をするやうになる。
例へば、「あの人に会ひたい」と思ふや否や、その瞬間、その人のそばにゐる。逆に「この人は嫌だ」と思へば、瞬時にその場をはるか遠く離れる。
あるいは、「桜が見たい」と願ふと、季節は春になつて桜が咲き出す。「紅葉が見たい」と思ふと、今度は秋めいて山々が紅葉に染まる。
かういふ体験は最初の内、霊人を戸惑わせるものの、その内に慣れて、今度はそれがとても快いものに感じられるやうになる。と同時に、悟るのです。
「目の前の現象は誰かが創つてくれるのではなく、すべて自分の『考へ』が創り出すのだ」
ところが、この世では事情がちょつと異なる。何が違ふかといふと、「考へ」と「結果」との間に時間的なズレがあるのです。例へば、「考へ」の翌日に「結果」が出ればまだしも、数ヶ月も数年も後に出れば、「考へ」とその「結果」とのつながりを認識することが難しくなる。
それで大抵の場合、
「こんなことになつたのは、〇〇のせいだ。環境が悪くて、たまたま運が悪くて、かうなつたのだ」
と考へてしまふのです。
この「考へ」は物事の本質から考へれば、「正しい考へ」とは言へない。だから、この世にゐる間から「正しい考へ」でゐられるやうに思考をコントロールする必要があるのです。
このやうな「考へ」にチューニングできるやうになると、自分が遭遇するあらゆる出来事の責任を他の何か(誰か)に転嫁することができなくなります。また、どんな出来事の中にも自分にとつて必然性があると考へるやうになります。
自分の「考へ」が自分の「結果」を創り出し、それを体験してゐる。それが本当に分かると、「結果」を変へるには自分の「考へ」を変へるしかないことが腹の底から得心されます。そして、「なぜそんな考へをするのか」といふ、自分の内奥に深く潜む本当の問題が少しづつ見えてきます。
これが「最高の祈りの生活」です。さうではないでせうか。
これまでの私の「祈りの生活」は、1日3分間だけ「良い言葉」で祈り、その前後23時間57分は思考のコントロールもなく、勝手気ままな考へに耽つてゐる。そんなものでした。だから祈りの言葉が我ながら「嘘つぽく」感じられるのは当然なのです。

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