無為自然なる「老年的超越」
「老年的超越」といふ概念があるやうです。私もつい最近知つたのですが、初めて提唱されたのは1980年代。スウェーデンの社会学者ラルス・トルンスタムが、多くの高齢者を観察しながら発見したものです。
どういふものかと言ふと、
「高齢期に高まることが見て取れる、物質的・合理的な世界観から、宇宙的・非合理的な世界観への変化」
です。
高齢期になると、内面の感じ方、世界観が変化するといふのです。
こゝで言ふ「高齢期」とは、大体85歳以上。トルンスタムはこの時期の変化を3つの領域に分けて整理してゐます。
①自己意識の領域
・体の機能や容姿を気にしなくなる
・自己中心性が下がり、利他主義的な考へ方になる
・人生で良かつたことも悪かつたことも「あるがまま」に受け容れる
②社会との関係の領域
・孤立や人間関係の減少が気にならなくなる
・地位や冨への執着がなくなる
・他人への依存を肯定するやうになる
③宇宙的意識の領域
・命の大切さや神秘を感じるやうになる
・死への恐れが減少する
若い頃には脂ぎつて社会的な地位や冨を追ひ求めてきたとしても、それを得たにせよ得なかつたにせよ、人生の最後にはさういふものはどうでもよくなる。「自立しなければ」と気を張つてゐたのが、「人に頼つてもいゝか」といふふうに変はる。良いことも悪いことも、ものごとを「あるがまま」に受け容れる。そして、生と死の境がぼやけてくる。死は特別のことではない。
こんな変化を見ると、これつてほとんど「無為自然、悟りの境地」ではないかと思へます。若い頃には「こんなふうになれれば楽だらうな」と思つてゐたやうなことが、高齢期に入るといつの間にか我知らず実現してゐる。これは一体どういふことでせうか。
私の母は現在91歳。認知症がひどく進んでゐる上に、昨年の暮れに脳梗塞を起こして体の機能がだいぶ落ちた。緑内障で目はほぼ見えない。
体を動かすのは1日3回の食事。トイレ。そして入浴。週3回近くのデイケアセンターから迎えに来てくれるが、大抵は「行きたくない」と言つてかなり抵抗する。あとはほとんどベッドで寝て過ごす。
私は世話をしながらも、
「こんな生活で、生きてて何か楽しいかな」
と思ふことがよくあるのです。
しかし「老年的超越」の話を読んでみると、
「本人の心の内は、本当は分からないものかも知れない」
といふ気がして、何となくホッとする。
確かに、感謝の言葉がよく出てくるのです。ちょつとしたことで「有り難いなあ」「幸せだなあ」とつぶやく。
さういふ言葉を聞くと、
「私よりももしかして、楽しくはないが幸せなのかも知れない」
と思ふこともある。
暗闇の世界に生きて、孫が来ても顔も見えないとしても、内面世界においては生と死の境もなく、良いも悪いもなく、出された食事を美味しく食べて、60代の私には知り得ない境地を生きてゐるのかも知れない。
今の日本は寿命が延びて、90歳以上の高齢者が200万人以上ゐるといふ。外側から見れば、世話が大変だ、医療費もかかると社会的な議論はあるが、本人たちは意外にも想像以上にピースフルな世界に生きてゐる可能性がある。
心身のこのやうな機能を神が準備して下さつたのなら、感謝したい気持ちになる。できるなら、その年齢域に達する前に、その境地を体験してみたいものだが。

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