幸福な人生のパラダイム
ほとんどのひとは、何かを「もって」いれば、何かが「できる」、そうすれば何かに「なれる」と信じている。彼らは存在――行為――所有というパラダイムを逆転させている。じつは宇宙では「所有」が「存在」につながらない。逆なのだよ。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
本来の人生のパラダイムは、「存在」(何かである=be)→「行為」(何かができる=do)→「所有」(何かを持つ=have)といふのが神の話です。ところが我々の中の常識はその逆で、「所有」→「行為」→「存在」といふパラダイムを持つて生きてゐる。パラダイムが逆転してゐるといふのです。
少し具体的に考へてみませう。
常識的なパラダイムとは、例へば、かういふものです。
もつとたくさんのお金を持つてゐれば(所有)、マイホームを買ふことができる(行為)。さうすれば私は幸せになれる(存在)。
あるいは、もつとたくさんの時間があれば(所有)、趣味を楽しむことができる(行為)。さうすれば私は安らかな気持ちになれる(存在)。
ところがこれだと、「所有」できなければ「行為」が生まれず、「存在」につながつていかない。「もう少しお金があれば」「もう少し時間があれば」と思つても、それが持てない状態ではいつまでたつても「幸せ」にも「安らかな気持ち」にもなれないのです。
かういふ人の内的状態はこんなふうでせう。
彼は今「あまり幸せではない」といふ状態(存在)にある。と同時に、欲しいと思つてゐる「お金もあまりない」(所有)。
これはかなりのジレンマですね。どのやうに打開すればいゝでせうか。こゝで神はニールに面白い提案をします。
「あなたが幸せといふ状態を願ふなら、あなたの中から利己的な要素を取り除きなさい」
これはどういふことでせうか。
「自分のために選んだことを、人にしてやればいゝ」
といふことです。
例へば、自分が「幸せ」になりたいと思ふなら、人を「幸せ」にしてあげる。自分が「豊か」になりたいなら、人を「豊か」にしてあげる。もつと「愛」がほしいのなら、人を「愛」する。
「さうすれば、あなたのほしいものは必ずあなたに返つてくる」
と神は保証します。
なぜでせうか。少し理屈っぽく感じられますが、かういふことです。
私が人に何かを与へると、自分が持つてゐるものを与へるといふ経験をすることになる。すると、私の心は自分について新しい結論を出すのです。
「私は持つてゐる(幸せである)に違ひない。さうでなければ与へられはしない(人を幸せにすることはできない)から」
この新しい考へ方(「私は幸せである」)が、私の経験になる。つまり、私の状態(存在)になる。一旦その状態になれば、私はその状態を創造し始める(行為)。そしてその創造が進めば進むほど、私は幸せの要素を多く持つやうになる(所有)。
これが一つのサイクルです。そしてこれは次のサイクルを必然的に生み出すやうになる。
このやうに「考へ方」が原動力となつて創造が始まり、物理的なものが現れる。神はこれを「人生の最大の秘密だ」と言つてゐます。
ところが、このサイクルには特にその初動において、大きな困難が伴ひます。与へるときに、真剣でなければならないのです。
私が人に与へるとき、私が「幸せ」であるふり、「豊か」であるふりをして与へても、それは私の心が見抜きます。
「本当は豊かではないが、豊かであるふりをして与へてみよう。さうすれば、私に豊かさが返つてくるだらう」
さう思つて与へようとすると、私の心は
「自分が豊かではないから、与へようとしてゐる」
と分かる。
すると、私は「豊かではない」といふ状態を経験し続けることになる。これでは決して「豊かさ」を創造することができない。そしてこのとき相手も同じ経験をする。
「この人は本当は豊かでないのに、豊かであるふりをして、私から何かを得ようとしているだけだ」
といふことが分かり、私の浅はかな利己心が丸見えになるのです。
これは非常に難しい問題ですね。善人にならうとする人は、特に気をつけなくては危ない。
私はあまり幸せでもないのに、幸せのふりをする。私の家庭はあまり円満でもないのに、円満なふりをする。それでゐて、幸せや円満を与へようとする。
さういふことに警戒する必要があります。

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