生命の動的平衡
生物学者の福岡伸一博士は「動的平衡」といふコンセプトを自身の研究の中心に据ゑてゐる。これは非常に興味深いコンセプトです。
「生命」とは何か。往々にして「自己の複製をコピーするシステム」などと考へます。「新しいものを創り出す」といふ面ばかりを考へがちなのですが、実際には「古いものを破壊する」といふ側面も生命にはあるのです。
破壊がなければ新しい創造がない。破壊しながら創造する。それが生命の最も大きな特性だと考へられるのです。
例へば、我々が100年以上浸食や風化に耐える頑丈な建物を建てようとするとき、どう考へるか。基礎は地下深くに打ち込む。素材はできるだけ頑丈なものを使ふ。さう考へるでせう。
ところがどんなに頑丈に作つても、千年万年もつかと言へば、それは難しい。エントロピー増大の法則から逃れることはできないのです。
その法則の中で、生物は38億年の長きにわたつて生き延びてきた。どうしてそんなことが可能だつたのか。法則の先回りをして、自らどんどん細胞を破壊する手段を取つた。破壊することで、結果的に常に新しい細胞が生まれる状況を維持してきたのです。
これを「動的平衡」と言ひます。非常に素晴らしいシステムです。
こゝでもう少し分かりやすく「動的平衡」をイメージして見ませう。鴨長明の『方丈記』の冒頭です。
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。 |
「行く川の流れ」は時間の流れ、あるいは空間的な広がりです。そこに浮かんで消えたり結んだりする「よどみに浮かぶうたかた」が「生命」を持つ我々です。「消え」が破壊であり、「結び」が製造です。
我々は昨日の自分と今日の自分を同じ「自分」と思ひ込んでゐますが、実は同じではない。生命は常に古い細胞を下流に流し続け、その空いたところへ新しい細胞が上流から流れ込んで来てゐる。
「自分」といふ固定したものはない。仏教の言ふ「諸行無常」です。
ところがです。それにも拘らず、どうして我々は「昨日の自分」と「今日の自分」を同じ「自分」だと思つてゐるのか。これが問題です。
「よどみに浮かぶうたかた」は、実は本当の「自分」ではない。これは昨日までどこか別のところにあつたうたかたの欠片が流れてきて、今日一時的にこゝのよどみに漂着し、「私」といふうたかたの一部になつたに過ぎない。
昨日、今日、明日と変転し入れ替はり続けるこのうたかたは、私の肉体です。この肉体を「堅牢な独立した機械」のやうに思つてゐるのはまつたくの勘違ひで、儚いうたかたに過ぎない。
ところが、そのうたかたの上に乗つかるものがある。それが永遠に変はらない「私」です。これを古来「魂(たま、あるいはみたま)」とも呼び、今では「霊人体」とも呼びます。
かう考へると、今まで確実に存在する「実体」だと思つてゐた「肉体」はうたかたで、これはむしろ「幻想」あるいは「観念」に過ぎない。反対に、得体の知れない「観念」のやうに思はれてきた「魂」あるいは「霊人体」こそが永遠に変はらない「実体」だといふことになります。
『方丈記』を書いた鴨長明は、一体誰だつたか。よどみに浮かぶうたかたを眺めながら、それが「自分」であると見ると同時に、そのうたかたを眺めてゐる変はらない「自分」もゐることを、実はしつかりと自覚してゐただらうと思ふ。
また、精神の活動として見れば、「破壊」は「忘れること」であり、「製造」は「記憶すること」でもあります。ここにも精神世界なりの「動的平衡」があるやうに思はれます。

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