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学習して忘れる

kitasendo
為末大

400mハードル日本記録保持者・為末大さんが「限界の正体」といふセミナーの中で、
学習は破壊でもある
と、自分の体験と絡めながら話してゐます。

スポーツの種目に拘らず、どんなアスリートも自分の技量を上げるために練習を繰り返す。最初はぎこちなかつた動きも、練習を繰り返すうちに段々とスムーズになる。

初めは自分の体の動きを一々意識してゐる。ところが練習を重ねるうちに、意識せずとも体が動くやうになる。
これはどういふことかといふと、体の動きを意識が無意識に委譲するわけです。

さうなると、意識する前に手が動き足が動く。このレベルが上がれば上がるほど、パフォーマンスが上がり、記録が伸びる。

ところが、このレベルが上がる途中で問題が生じることがある。最初の練習を自己流で始めてゐると、登り詰めようとするところで、その自己流が邪魔をするのです。

ここまで来て自己流を修正するのは、それまで技量を向上させてきた努力以上に困難を極める場合がある。なぜ難しいか。無意識の管理権を意識が取り戻さないといけない。それが難しいのです。

「学習は破壊でもある」といふ考へは、かういふところから出てきます。これまではこのやり方でいゝと思つてきたのを、あるとき変へなければならない壁にぶつかる。そのときは、これまで習得してきたものを破壊する(捨てる)必要に迫られるのです。

これはスポーツに限らないなと思ふ。どんな人も、その人生の様々な場面で、この問題にぶつかる。

スポーツの技術なら、それはせいぜい自分の幼少期からの習得です。ところが我々の心の動きは、多分もつと深い所に根を持つてゐる。

例へば、かういふ場面、かういふ言葉で、私は必ず怒りが湧く。これはできるが、あれはできないと思ふ。あの人は好きだが、この人は嫌ひ。

かういふ私の心の動きは、ほぼ無意識から出てきてゐます。アスリートが毎日の絶え間ない練習で身につけた体の動きと同じです。

人生がだいぶ進んできて、あるとき、ふと気づく。
「この心の動きでは、自分はだめだ。このまゝでは、私は本性の人になれない」

ところが、自分の心でありながら、それを修正することが極めて難しいのです。

願はないのに、我知らず出てくる、私の嫌な心。これを「堕落性本性」と言ひました。我知らず出てくるといふのは、無意識から出てくるといふことですから、これを意識で変へるのは月を取つて来る以上に難しい。

「学習は破壊」を為末さんは「学習して忘れる」とも言ひ直す。習得することはもちろん必要だが、それを忘れることはそれと同等かあるいはそれ以上に重要だといふのです。

しかし、忘れるのは意識的な行為でせう。無意識にあるものを意識的に忘れようとして忘れるといふのは、ほぼできないことのやうに思ふ。

堕落性本性を忘れることはできない。むしろ、忘れてゐるときに出てくる。だからこれを脱ぐことに苦心惨憺するのです。

難しいけれども、これまでに習得したものを一旦意識にとり戻し、修正したものを再び無意識に戻す。これを習慣化するしかありません。

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弁明するアダム
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