神学の正論
ニール・ドナルド・ウォルシュは『神との対話2』の中で、自分が子どもの頃から教はつたカトリック教会の教へについて、神に説明してゐます。その一部を要約して紹介してみます。
★★★
我々人類は例外なく誰でもが罪人である。私自身には身に覚えがなくても、アダムとイヴの子孫である。彼らが禁断の木の実を食べたといふ罪(原罪)を、その子孫としてみんなが分け合つてゐる。
我々が選択の自由を与へられた理由もそこにある。つまりアダムとイヴと同じことをして神を裏切るか、それとも世界に誘惑されても正しいことをするか。それを試されてゐる。
それでもし、神を裏切つたらどうなるか。
神が地獄へ送る。しかし悔い改めれば地獄は免れ、その代はりに煉獄へ送られる。煉獄は天国と地獄との間にある。そこで、自分の内にある神と異質なものを浄めなければならない。
煉獄に留まる時間は、その人の罪の多寡によつて異なる。罪が多ければ、それを焼き清めるのにも時間がかかるから、長く留まるしかない。それでも永遠の地獄と比べれば、はるかにましだ。
我々の罪は、大罪と小罪に分けられる。大罪としては例へば、殺人、強姦、盗みなどがあり、小罪としては日曜日に教会へ行かないとか、昔なら金曜日に肉を食べたなどがある。(金曜日の肉食については、1960年代の初めにローマ法王がもう罪ではないと定めた)
子どもはどうなのだらう。さう言つた神のルールを何も知らない無垢な子どもは?
生まれてすぐに洗礼を受けなければならない。洗礼を受けずに死んだ子どもは天国と地獄の間にある「リンボー」(煉獄とは違ふ)へ行くようになる。無垢な子どもであつても、洗礼を受けずには決して天国へ行けない。
間違つた教会へ行くのも罪である。カトリック教会なら、それ以外の教会へ行くことはすべて罪になる。間違つた教会で洗礼を受けるのもいけないし、間違つた教会で結婚するのもいけない。
カトリック教会から見れば、自分たちの教会には神がゐるが、他の教会には神がゐない。だから、他の教会から誘ひを受けても友人の結婚式に参加してはいけない。それでも行かうとすれば、修道女から止められる。
このやうに、カトリック神学によれば、天国があり、地獄があり、煉獄があり、リンボーがある。大罪と小罪など罪の大きさによつて行く場所が異なる。
洗礼の他にも、いくつか重要な儀式がある。堅信礼があり、聖体拝領があり、懺悔がある。さらには祓魔(ふつま)、終油の秘跡などもある。労働をしないでミサに出席する、つとめの祝日といふ聖日もある。
これらの中でも、懺悔はできるだけ頻繁に行ふことが勧められる。毎週する人もゐれば、中には毎日する人もゐる。懺悔によつて罪が浄められるから、死んだとしても地獄に行くことは免れる。
懺悔と懺悔との間に罪を犯し、事故で死んだらどうなるのか。
慌てることはない。死ぬ間際にでも深く悔い改めれば大丈夫。
「神よ、私はあなたに背いたことを心から悔やみ…」
それだけでも地獄は免れる。
★★★
以上の説明をじつくり聞いた神様のコメント。
「やれやれ、あなたがた信仰者はいつも地獄の不安におののきながら生きてゐるやうだな。気が気ではないね」
それに対する説明者ニールの正論。
「だつて、それが宗教の目的でしょう? 宗教は神への畏れを植ゑ込むんです。さうすれば、誘惑に勝つて正しい行ひをしますから」

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