魂は「在り」、体は「動く」
何かで「在ること」と「行動すること」には違いがあり、たいていのひとは後者に力点を置いているということだ。… 言い換えれば、あなたが発達することを――魂の発達を――選ぶなら、身体の世間的な活動によって達成することはできない。 「行動すること」は身体の働きである。「在ること」は魂の働きである。 (『神との対話』ニール・ドナルド・ウオルシュ) |
魂は「在り」、体は「動く」。この2つの内、どちらが本当の幸福に関はるかと言へば、魂である。魂がどのやうな「在り方」をするかが、幸福と不幸を決めるのだと、神はニールに諭してゐます。
体は「動く」ことによつて幸福を求める。例へば、欲しいものを得ようとする。人の為に生きようとする。体は何かを「する」ことで幸福を得られると思つてゐるが、実はさうではないといふのです。
私のことで考へてみます。
私は今づつと、おばあちやん(老母)の介護をしてゐる。1日3度の食事を準備し、1日何回もオムツを換へる。この生活がもうかれこれ1年半になる。
これは私の体で動いてゐることです。親の世話だから、一応悪いことではなささうに思へる。実際傍の人たちから「よくやつてゐるね」と言はれることがある。
しかしこの活動自体が私を幸福にするかと言へば、そんな保証はないのです。
私が毎日一生懸命に世話をする。疲れる時もある。食事の準備が面倒くさくなるときもある。
そんなときに、もしも私が心の中で
「どうして、こんな要介護度5の状態でいつまでも生きるのだらう?」
といふ気持ちになれば、私は決して幸福ではない。
体は動いて世話をしてゐるのですが、魂においては私は自分自身を嫌悪せざるを得ない。これはどういふことかと言ふと、体は為に生きてゐるやうでありながら、魂は相手を受け容れてゐないといふ「在り方」をしてゐるのです。この状態では、私は決して幸福になり得ない。
魂はどのやうでありたいのでせうか。
魂は、私が体で行ふすべてを受け容れたいのです。私が介護をしてゐるのなら、それを「してゐるといふこと」も、「介護の相手」も、「介護の相手の反応」も、「それに対する私の思ひ」も、すべてを受け容れたい。私がそれに関はつてゐることの価値を感じ、喜びたいのです。

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