気高い自分を愛する
人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会 ―― それどころか、唯一の機会 ―― を与えてくれるからだ。逆に、相手の最も気高い部分をとらえて経験する、つまり他者との経験のための最大の機会だと考えると、失敗する。… 人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。 (『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
私は若い頃に「為に生きる」といふ人生哲学を学びました。
「人の為に生きる」
「社会の為に生きる」
「国の為に生きる」
「神の為に生きる」
気高い哲学だと思ふ。
しかし「為に」の前に入らない(入るべきでない)言葉があると、暗黙の裡に思つてきました。「自分」といふ言葉です。
「自分の為に生きる」では、自己中心的な生き方にしかならない。これは神から最も遠い生き方ではないか。さう思つてきたのです。
ところが、聖書の中に、
「自分を愛するやうに、あなたの隣り人を愛せ。これが第二の戒めである」
といふ言葉があります。
これを解すれば、
「誰でも自分を愛してゐる。自分といふのは最も大切で、自分のことは第一に考へるだらう。だからそれと同じレベルで他者をも大切にし、愛しなさい」
となるでせう。
「自分を愛する」といふことが、自明のやうに言はれてゐます。しかし本当に自明だらうか。本当に我々は自分を愛してゐるだらうか。
よくよく自分を見つめると、我々は意外にも、自分をそれほど愛してはゐない。自分を大切にも扱つてゐない。さういふ場合が多いと思ふ。
こゝで「自分」について、精査する必要があります。
なるほど確かに、我々は「自分の体」は大切に思つてゐるかも知れない。「自分の利益」も最優先してゐるかも知れない。しかし果たして、「気高い自分」を大切にしているだらうか。
「自分の体」や「自分の利益」は、本当の「自分」ではない。こゝが曖昧だと、問題です。
すると、聖書の言葉は少し変更しなければなりません。
「気高い自分を愛するやうに、あなたの隣り人を愛しなさい」
それなら、「気高い自分」とはどんな「自分」でせうか。「個性完成した自分」と言つてもいゝし、「生命の木」と言つてもいゝかも知れない。
それが一体どんな「自分」なのか、私自身にもはつきりとは分からない。ただ、その「自分」を創造していく過程で、人間関係が最も重要な機会だといふのです。
そんな重要な機会に、相手のことだけを考へて自分を見失つてはいけない。
人間関係は、誰にとつてもその人生で最も悩みの多い要素でせう。「相手は今、何を願つてゐるだらう」と考へて、それに沿はうとする。しかし相手の心中は結局100%分からないから、悩む。
さういふときに、
「気高い自分は何を願つてゐるのだらう」
と考へてみる。
夫婦関係ならば、
「私は妻(夫)を通して、どんな自分にならうとしてゐるのだらう」
親子関係ならば、
「私はこの子を通して、どんな自分を創造しようとしてゐるのだらう」
と考へてみるのです。
人間関係は私が「生命の木」になることのできる唯一の機会だといふのは、よく考へてみるべきことだと思ふ。

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