あらゆるところに神を見る
ひとつ説明しておこう。あなたは、神が姿を現す方法はひとつしかないと思っている。そういう考え方は、非常に危険だよ。そう考えていては、あらゆるところに神を見ることはできない。神の現れ方はひとつしかないとか、語り方はひとつしかない、神の在り方はひとつしかないと思っていると、毎日わたしを見ていても気づかないだろう。 (『神との対話』ニール・ドナルド・ウオルシュ) |
ここで説明してゐるのは、ニールに語りかける「神」です。そして神が警告してゐる点は、「神観」の本質に関はる、かなり重要な内容だと思ふ。
ニールは
「神が姿を現す方法は一つしかない」
と思つてゐるといふが、これはニール独りに限つたことではない。真面目で熱心に神を信じる多くの人が、同じやうに思つてゐるのではないでせうか。
典型的なクリスチャンなら、
「神はイエス・キリストを通して(のみ)そのお姿を顕現なさつた」
と考へてゐる。
あるいは、原理を学んだ人なら、
「神はアベルを通して(のみ)み言葉を語られる」
と信じてゐるかも知れない。
あるいは、
「神は創造原理の善の神であるから、その原理に外れた悪は決して容認されない」
といふ考へ方もあるかも知れない。
キリストにのみ、アベルにのみ、原理にのみ、神は臨在し給ふ。不信仰者や非原理圏には神はその姿を決して現さない。この世の犯罪者、極悪人が神を現すなんてことがあり得るか。私自身も長らくそんなふうに考へてきたやうな気がする。
しかし、さういふ考へ方は「非常に危険」だと、「神」は言ふのです。なぜ危険か。その考へ方だと、すぐそばに神がゐても、私はそれに気づかないといふことがあり得るからです。
危険なだけではない。さういふ考へ方は、有限な人間の知恵で無限な神を狭く制限してしまふものではないかとも思ふ。神といふ方は、人間の浅はかな知恵に制約されてしまふやうな、そんなちやちな方なのだらうか。そんなはずはないと思ふ。
以前私は「『神は善である』といふ思ひ込み」といふ記事を書いたことがあります。「神は悪である」とはもちろん言はないが、善でもなく悪でもないと考へてみたのです。
「神は善である」と言つてしまふと、「善に当てはまらないもの」に「悪」といふレッテルを貼らねばならなくなる。するとそこから必然的に、善と悪の闘争が始まるのです。
「我は善、お前は悪」と言つて闘争するのは、結局の人間の考へなのです。神が闘争に嵌らないためには、「我は善」と言つてはならない。善と悪を超越した方でないといけない。
だから我々が「善の神」を求めたら、結局神に出会へないといふことになる。私を虐める上司にも、私の言ふことを聞かない子どもにも、私の思ひ通りにならない環境にも、神の現れを見出す必要があるのです。

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