神が現れるところ
さて、皮肉なことに、あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、経験をないがしろにしている。経験をないがしろにしているから、神を経験しても、それが神について教えられていることと違うと、たちまち経験を捨てて言葉のほうをとる。ところが、ほんとうは逆であるべきなのだ。 (『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
自動書記を通じてニールと対話してゐる「神」によると、神は人間とのコミュニケーションに主として4つの手段を使ひ分ける。
・経験
・感情
・思考
・言葉
これらをどのやうに使ひ分けるか。
神が最も重視するのが「経験」だと言ふ。しかし経験できないこともある。そこでそれを補ふために、感情と思考を使ふときもある。そしてこの3つがすべて失敗したとき、最後にそれらの代用物として使ふのが「言葉」だと言ふのです。
つまり「言葉」は最後の手段です。「言葉」は真実の伝達手段としては、最も当てにならない。ところが我々人間は、「言葉」と「経験」が食ひ違ふと、「経験」を捨てて「言葉」を取つてしまふ傾向がある。本当は「経験」を取るべきだ、「言葉」を忘れなさいと神は言ふ。
「経験」は本当に、神にとつて最強のコミュニケーション・ツールでせうか。私がこれまでに信頼を寄せてきた「言葉」、例へば、聖書や原理の言葉を捨ててでも取るべきだと言ふほどに重要で価値あるものでせうか。
そもそも神が言ふ「経験」とは何なのか。これを考へてみる必要があります。
聖書の言葉に
「あなたに本当の信仰があるなら、山よ動けと命じれば山が動く」
といふのがあります。
ふつうにはいくら命じたつて山はびくとも動かない。しかしもし本当の信仰の力で山が動いたとしたら、どうでせう。これはすごい「経験」です。
「本物の信仰には、神は確実に応へてくださる」
といふ稀有な経験をしたことになるでせう。
しかしこれは本当に神が言ふところの「経験」なのか。
あるいは、私の職場に嫌な上司がゐて、いつも神様に
「この嫌な上司をどこかに異動させてください」
と祈つてゐた。
すると、ある日本当にその上司に辞令がくだり、どこか私の目の届かない遠くに異動した。これも驚きの現象ではあるが、本当に神が言ふところの「経験」なのか。
神は形がなく、見えない神です。その神がどうやつて山を動かしたり、上司を異動させたりできるのか。もしできるとしても、神はそもそもそんなことに関心があるでせうか。
見えない神は、外界の現象を通じて出現する方ではない。神が私に出現する唯一の方法は、私の「内的な経験」を通じてです。神が見えない神として留まつてゐるとは、さういふことだとしか考へやうがない。
「私にとつて、私の内的な経験がすなはち『神』である」
そのやうに言へないかと、私は思ふ。
神が「経験」を最強のコミュニケーション・ツールとして用ゐるといふ意味は、その「経験」の中にこそ神がおられるといふことではないのでせうか。
我々は日常的に絶えずさまざまな「経験」をし続けてゐます。しかしその「経験」を外的に捉へていくら分析しても、そこには神はおられない。外的な「経験」を私は自分の内面においてどのやうに「経験」してゐるか。そのやうに見るときにおいてのみ、私は「経験」を通して神とコミュニケートできる。
上に挙げた例で考へれば、私は「上司よ、異動せよ」と切実に祈り続ける。そして、祈りの通り上司が異動する場合もあり得るし、いつまでもそこにゐ続ける場合もあり得るでせう。
異動するにせよ異動しないにせよ、そのこと自体には神は関はつておられない。唯一神が現れるのは、結果の如何に拘らず、その現象を私がどのやうに受け止めるかといふ「内的な経験」においてのみだと思へるのです。

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