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20数年ぶりの「神との対話」

kitasendo
神との対話

今から20数年前、私が牧会者であつた頃、『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ)といふ本を書店の店頭で見つけた。

「神と対話したとは、何だかいかがわしい。一体どんな人物だ?」
と思ひながらも、対話の中身に興味を覚えて、買つて読んでみたのです。

対話の進行は、著者による自動書記に基づいてゐた。自動書記自体は昔体験したことがあつたので、さほど違和感はない。あり得ないことではないと思つたのです。

体験と言つても、自分が自動書記をしたのではない。当時私は米国に滞在しており、一緒に伝道活動をしてゐた仲間の一人が、あるときから自動書記を体験し始めたのです。

最初はおぼつかなかつたが、だんだん慣れてくると、彼は
「昨夜、かういふ自動書記が届いた」
と言つて、皆の前で公開することが増えた。

その書記の中には、ときどき個人を指定して送られてくるものがある。私自身も何度か指定された。

「○○はこういふタイプで、かういふことは苦手だが、別のかういふ取柄がある」
などと、個人的な指摘があるのです。

「本当にそんな個人的なことが、分かるのか? しかし少なくとも、彼自身の意見でないことは確からしく思へる」

内心100%は信じ切れない思ひがありながらも、指摘は的確で、何より批判がなく、励ましに満ちてゐる。得体の知れない、おかしな霊的現象ではないやうな気がして、静かに聞いてゐたのです。

今では細かな指摘はほとんど忘れてしまつたが、その中で一つだけ、今でも忘れられない言葉がある。

神は、決して強制されない方です

それを聞いて、「ほー、さうなんだ」と思つた。

神の95%と人間の5%。人間にはそれ独自の責任分担があるといふ学び方をしてゐたものの、あゝいふ平易な言葉で聞いたのは初めてだつたやうな気がする。それで印象に残つたのです。

珍しい体験は数カ月続いたが、そのうち自動書記の数が減り、自然と沙汰止みになつた。

『神との対話』に話を戻します。昔の体験があつたので、自動書記を頭から否定する気はなかつたものの、途中で本を閉じてしまつた。

「神との対話とは言ふのに、創造原理も堕落論も出てこないではないか。イエスの十字架が神の御心でなかつたといふ話もない。これは本当の神様なのか?」

何となくそんなふうに思つて、読む意欲を失つたやうな気がします。

当時、牧会者として信徒に教育する中に、必ず「神観」がありました。「神はどんな御方か」といふことを、原理に基づいて講義するのです。その教育に、『神との対話』の神のメッセージを組み入れることができるか。さう考へると、かなりの違和感があつたのです。

あれから20数年。先日、ふと思ひ出して、『神との対話』を手に取つてみました。今なら、最後まで読んでみる気になるだらうか。私の「神観」に資するところが何かあるだらうか。

読んでみながら、記事にできるものがあれば記事にします。

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なるほど、小林秀雄2
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