「喜んで」受け容れる
前の記事「『問題』といふ福音」からの続きです。
一見、おかしなタイトルのやうですが、「問題」はその対応さへ間違はなければ、私にとつて有益であり得るといふ意味です。その対応において、「甘受」がキーワードだと見ました。
「甘受」とは
「(問題を)当然のこととして、喜んで受け容れる」
といふことです。
「当然」とは、どういふことでせうか。「問題」の原因は「自分」にあるといふことです。
過去数回の記事で書いてきた通り、「現象」と「問題」は同じではない。しかし我々はこれらを同一視しやすく、「現象」が自分を苦しめてゐると、つい考へてしまふのです。
「今の環境が私を苦しめる」
「あの人の言動にイライラする」
「政治がなつてないので私の暮らしが苦しい」
などなど。
私の「問題」の原因が必ず私の外にあると考へてしまふ。ところが、実はさうではない。
「現象」は私の外にあるが、「問題」は常に自分の中にある。その原因ももちろん自分の中にある。それなら、その「問題」を受け容れるのは「当然」のことなのです。
「あなたのせいで私は苦しんでゐる」
などと、誰か他の人、あるいは環境を責めることはできないことになります。
なるほど、「問題」の原因まで自分の中にあるのなら、仕方がない。分かりました、本意ではないが一応受け容れませう。
ところが、さう言つて「問題」を渋々受け容れるのではだめなのです。「喜んで」受け容れる必要がある。さうしないと「甘受」にはならないといふのです。
しかし、これは難しい。「問題」即ちさまざまな苦痛を「喜んで」受け容れるなんてことが、一体できるものでせうか。常識からも直観からもあまりに外れてゐるやうに思はれます。
そこで「甘受」について、もう少し深く吟味してみませう。
「甘受」といふ言葉には、どことなく受け身の「辛さ」とか「我慢」が感じられます。「喜んで」といふニュアンスが薄められてしまふやうな気がする。そこで「甘受」を「感謝」に置き換へてみます。
さうすると、
「『問題』が起こつたときに『感謝』する」
となります。
なぜ感謝するのでせうか。
私がある「現象」を体験するのを契機として、私の中から「潜在的蕩減情報」が立ち上がる。それが私に「問題」として感じられる。
それはどういふことかと言ふと、
「あなたの中には、かういふ隠れた『問題』が解決されないままにあるのですよ」
と教へてゐるのです。
そして、
「その『問題』を今、このチャンスに解決(蕩減=帳消し)しませう」
と促してゐる。
今もしここで「問題」として現れなければ、「問題」を解決すること自体が不可能です。「問題」は先送りにされる。だから今ここで「問題」が起こることは有り難い、「感謝」なのです。
それなら、一体誰が「教へ」、「促す」のでせうか。「万有原力」と言つてもいゝし「良心」と言つてもいゝかも知れないが、究極的にはやはり神と言つていゝでせう。
「問題」解決のために、神は私の目を「外」へではなく、「内」に向けようとされるのです。

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