「現象」と「問題」
「現象」と「問題」について考へます。
我々はよく、自分の人生にはいろいろな「問題」があると感じたり、考へたりするものです。
例へば、
「夫(あるいは妻)は、私の言ふことをちつとも聞いてくれない」
といふやうな身近な問題(悩み)もある。
あるいは、
「ニューヨークの株価が急落したらしい。日本経済は大丈夫かしら」
といふやうな、かなりかけ離れた問題(懸念)もある。
いづれにしても、「問題」とは何か。一言で言つて、「私の心に引つかかること」が私の「問題」なのです。
私の周辺には膨大な数の「現象」が絶えず生起してゐます。その「現象」の中で、嫌だ、辛い、不安になる、後悔するなど、私の心に何らかの摩擦を生むものが私の「問題」になるのです。
上の例で言へば、夫が私の言ふことを聞いてくれないといふのは、「現象」としては、夫のある特定の行動パターンに過ぎない。謂はば、何の色もついてゐないニュートラルなものです。ところがその夫の行動パターンが私にとつて「気に障る」とき、それが「問題」として意識されるのです。
あるいは、
「昨日から今日にかけて、ニューヨークで株価が○○ドル急落した」
といふニュースが流れる。
今日ニューヨークでは数えきれないほどの「現象」(出来事)が起こつてゐる。それなのに、記者はなぜ「株価の急落」をニュースにしたのか。それは、その現象が彼の心に引つかかつたからでせう。つまり、「株価の急落」はその記者にとつての「問題」であつたのです。
そしてそのニュースを私がテレビで観る。もしも私が株価などにまつたく関心がなければ、そのニュースは「ニュースといふ単なる現象」として、私の心をそのままスルーするでせう。しかし私がその株をいくらかでも所有してゐたら、そのニュースは私にとつても重大な「問題」になる。
さういふ意味で、
「すべての『現象』は私の外で起きてゐる。しかしすべての『問題』は私の中で起きてゐる」
と言ふことができます。
このやうに「現象」と「問題」をはつきりと区別することは、とても重要だと思ひます。実際には、我々は往々にしてこの2つを混同して考へがちです。
「現象」は私の外で起きてゐる。その情報を私の五感で受信して、電気信号として脳に送ります。ここまでは誰でも同じですが、その信号が脳の中でどのやうに認識されるかは、人によつて違ふ。
それで、Aさんの態度が、Bさんにはまつたく気にならないのに、私は気に障つて仕方ないといふやうな違いが生まれる。このとき、Bさんの中では起きない「問題」が私の中では起きる。これが「すべての『問題』は私の中で(のみ)起こる」といふ意味です。
「現象」と「問題」を峻別することがなぜ重要か。「現象」は私がコントロールすることが難しい。しかし「問題」なら、私のコントロール下に(一応)あるのです。
Aさんの態度を私が私の気に入るやうに変へることは難しい。しかし「気に障つて仕方ない」といふ私の「問題」なら、自分で何とかできる可能性があるでせう。
何とかするために、まづ考へるべきことがあります。
「Bさんには気にならないのに、なぜ私には気に障るのか」
といふことです。
頭で考へて思ひつく理由もあるでせう。しかしそれがドンピシャで的を射てゐるかどうか分からないし、他にも何か自分で気がつかない理由があるかも知れない。
自分で気がつかない理由は、多分、潜在意識の中に情報としてあるのです。これを「潜在的蕩減情報」と名づけておきます。
潜在意識は、謂はば「過去の記憶といふ情報の海」です。情報の量は膨大ですが、私がある「現象」に遭遇したとき、その「現象」に関連性のある特定の情報が意識に浮上してくる。そのときに「現象」が「問題」として感じられるのです。
「問題」は嫌なことで、できるだけ回避したいと思ふのがふつうですが、実はこれが有り難い。それはなぜか。その理由を説明するには、潜在意識の情報に「蕩減」といふ言葉を附した理由から説き起こさねばなりません。

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