雨滴声
気象予報士は今やニュース番組に欠かせない専門職ですね。
この前、ある番組で紹介された予報士は、良く言へばプロ、別の言ひ方をすればオタクといふ感じで、興味をそそられました。彼は何しろ「雲」に憑りつかれた「雲オタク」なのです。
暇さへあれば、空を見上げる。ちょつとでも面白い形の雲を見つけるとスマホで撮つて、すぐSNSにアップする。初めから終はりまで雲ばかりの彼のサイトに数万(数十万だつたかな?)のフォロワーがゐるのです。フォロワーもフォロワーだなと思ふ。
私でも1年に数回くらゐ空を見上げて、何かの形に見える雲を見つけると珍しくて、思はずシャッターを切ることがある。赤く染まつた夕焼け空に魅了されることもある。
しかしふだんは、
「空に雲があるのは当たり前だ」
といふくらゐにしか思つてゐないのです。
門外漢には魅力も価値もない、ごくありふれた「雲」。ところが予報士にとつては宝の山なのです。何が宝なのか。雲には今後の天候変化を暗示する情報が詰まつてゐる。雲の形や動きを深く読めば、これから天気がどう変化するかがかなり正確に読めるらしいのです。
雲は言葉を話さないが、その姿には大量の情報が畳み込まれてゐる。これは雲に限らない。自然万物はどれも言葉こそ発しなくても、それぞれに多くの情報を擁してゐるので、センサーのある人にはそれを読み取ることができるのでせう。
私はブログ記事を書くとき、よくBGMを流します。好きなのは自然音で、あるときは山の中で啼く鳥の声、あるときは降りしきる雨音などを1時間、2時間流し続けるのです。
これらの音は、ほぼフラットです。何気なく聞けば、ほとんど変化のない音の連続なのです。しかしじつと聞いてゐると、そこには言葉とは違ふ種類の情報が豊かに畳み込まれてゐるのを、何となく感じるやうになります。
例へば、雨音と言つても一つではありません。
家の屋根に当たる雨音。
石畳に落ちる雨音。
樹々の葉つぱを打つ雨音。
いろいろあるのです。ときどき、記事を書く手を止めて、雨音にぢつと耳を澄ますと、いくつもの雨音が重層的に重なつてゐることに気づきます。
禅に「雨滴声(うてきせい)」といふ言葉があります。
9世紀の中国に道怤(どうふ)といふ禅僧がゐた。ある夜更け、傍らにゐる求道者に尋ねます。
「あの窓の外の声(音)は何だ」
求道者は答へる。
「はい、あれは外で雨がパラパラ降つてゐるのです」
すると道怤は、
「あゝ、やつぱりお前も、己に迷つて物(音)を逐(お)ふか」
と嘆じた。
「雨の音は誰が聞かうと雨の音でせう。老師は一体どのやうに聞かれたのですか」
といふ求道者の問ひに、道怤は、
「ありのままは、なかなか表現できないことだ」
と答へたといふ。
道怤は「雨滴声」をどう聞いてゐたのか。彼自身が説明できないといふのですから、真意は分からない。いかにも禅的な問答で、私は面白く感じます。
雨滴は言葉を喋らない。だからその雨滴が何を喋つたのか、言葉で説明することはできない。しかし言葉ではない何かの話(情報)を道怤が聞き取つたのは確かだらうと思ふのです。
雲オタクの気象予報士は、道怤のやうに、
「なかなか表現できない」
とは言はない。
むしろはつきりと、
「あの雲は、かういふ天気の予兆です」
と説明してくれる。
しかし雲については「己に迷つて」ゐるふうがないところは、ほぼ禅僧に近い感じがする。

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