判断しない私
心情の誘発が、原理的か非原理的かが問題です。それによって、蕩減条件をつくるか、讒訴条件をつくるかが決まるのです。 蕩減条件を積んでいなければ、何年たっても、理論的知識はもてても、霊的には成長できません。 (『心情開拓』李耀翰) |
我々が絶えず霊的に成長するためには、理論的知識は役に立たない。私の生活が蕩減条件を積む生活でなければならないといふのです。
それなら、どんな生活が蕩減条件を積む生活なのか。自分の生活を原理的に分析する必要があります。
李牧師はその分析のポイントを次のやうに簡潔に述べてゐます。
環境によって刺激を受けると、簡単に処理してしまって、歴史的、未来的内容を見つめようとしないことが多いのです。… ある事件を、その時間圏内のものとしてのみ判断してしまい、深い意味を考えなければ、蕩減条件にはなりません。 (同上) |
李牧師はその一例として、イスラエルの解放者モーセがエジプト人兵士を殺したときのことを取り上げてゐます。
モーセはイスラエルの血筋を引きながら、数奇な運命でエジプト王の娘に拾はれ、そのまま宮殿で成長する。ところがある日、彼は同胞の民がエジプト兵に虐待されてゐるのを目撃し、血気のあまりエジプト兵を撃ち殺してしまふのです。
それを見たイスラエル人たちは、
「彼は我々までも打ち殺すのではないか」
と騒ぎ出し、それが王の耳にまで届いて、モーセは宮殿を出奔する羽目になる。
そこで、モーセを中心としてイスラエル人をエジプトの囚はれの身から解放しようとした神の摂理は、一旦頓挫した。それは、ここで蕩減条件が立たなかつたからだと解釈できます。
李牧師の言ひ方を借りれば、
「蕩減条件ではなく、讒訴条件が立つた」
訳でせう。
何が問題だつたのか。
「その出来事をその時間圏内のものとしてのみ判断してしまひ、深い意味を考へなかつた」
このことが問題となつたと思はれます。
モーセが数十万の同胞を一度にエジプトから解放させるといふやうな歴史的大事件は、我々の日常生活には起こり得ない。しかしこれを一つの象徴と考へれば、どうでせう。我々を「堕落性」といふ牢獄から解放させようとする出来事は、日常のいつどこで起こるか分かりません。
大抵は小さな出来事なのです。
今まで優しげだつた人が、急に怒り出す。
人格者だと思つてゐた人から、ひどい扱ひを受ける。
その人の為にしたのに、感謝されない。
日常の中でさういふ事態に出会つたとき、それを「その時間圏内のものとしてのみ判断するか」、それとも「ある歴史的な意義のあるものと受け止めるか」。そこで讒訴条件になるか蕩減条件になるかに分岐するのです。
このときの判断はきわめて難しい。我々は大抵、「その時間圏内のもの」として判断し、対応しやすい。その結果、蕩減条件ではなく讒訴条件になつてしまふのです。
その理由は第一に、我々自身が今といふ時間圏内に生きてゐるから。そして第二には、小さな出来事は、まさに小さく見えるからです。
現実の私は時空に縛られて、自分を中心とした狭い範囲しか見えない。それで私は「神と同じ立場」に立てず、大抵の判断を誤るのです。
どうしたらいゝのでせうか。
「私の判断」が問題であるなら、その「判断する私」をなくす。私を限りなくゼロに近づけて、取り敢へず判断を控へる。これが、今の私の考へ得る最良の方法です。
「ゼロ」といふのは比喩的な表現で、「何もない」といふことを意味しません。「ゼロ」といふ概念自体が茫洋としており、掴みどころがないのですが、敢へて言へば「すべてがあるところ」です。「神のいます一点」と言つてもいゝ。
その「ゼロ」から、「判断する私」を取り出して消去する。
「判断する私」をもう少し具体的に言へば、「常識的な私」であり、「過去の体験と記憶に縛られた私」です。さういふ「私」をなくすのです。
「判断する私」がなくなつたら、「判断しない私」になる。「判断しない私」は、あらゆる先入観の元になる一切の情報を持たない私です。
さういふ「判断しない私」になつたら、誰が判断するのか。これが問題です。

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