バーチャルとリアル
今我々が住んでゐる社会にはいくつもの仮想があると告発する人がゐます。実際にはその仮想が仮想と見えず、いかにも事実らしく装つてゐると言ふのです。
例へば、日本は民主主義の国で、主権は国民にあるといふ仮想。本当にさうなら、我々は自分の代理(代議士)を選んで国政を動かすことができるはずなのに、実際には今の小選挙区制では代議士ではなく政党を選ぶしかない。代議士は所属党の利益を無視できない。それが現実です。
あるいは、エコカーはエネルギーを節約するといふ仮想。石油など天然資源は極めて有限だと宣伝され、エコカーが推奨される。それには国から補助が出る。その財源はもちろん税金だし、石油は今後数万年分は十分にある上、エコカーは実際にエネルギーをさして節約しない。税金を多く使つた役人が出世するだけといふのが現実です。
かういふ話を聞くと、真面目に投票に行き、正直に税金を払つてゐるのが何だか虚しいやうな、暗い気分になります。
しかし、と考へてみる。
もともと、この世は仮想なのではないか。これを現実(リアル)と見做す理由はあるのか。
例へば、VRゴーグルを装着して、そこに飛行機のコックピットを高精細で映し出せば、そこがバーチャルなのかリアルなのか、どうやつて区別をつけるか。
私は以前、自動車運転の教習で椅子に腰かけ、目の前のモニターに映る道路を運転させられ、たちまち酔つたことがある。モニター映像だとは分かつてゐるのに、体はリアルに車酔いするのです。
今は視覚だけではない。特殊な手袋をはめれば、バーチャルな触覚まで作り出すことができます。
目の前に一輪のバラが咲いてゐれば、そのバラはリアルだと思ふ。花びらの色は赤く、棘に触れば痛い。
しかし、Ultimate Reality(究極のリアル)とは「神」を指します。Realityはふつう「現実」とか「実在」などと訳されますが、養老孟司さんはこれを「真善美」と訳すべきではないかと言ふ。
ふつうの感覚では、バラがリアルで神とか真善美は仮想あるいは抽象概念です。ところがよくよく考へるとこれは反対で、神や真善美がリアルで、バラがバーチャルなのかも知れない。
私個人においても、肉体がリアル、心はバーチャル(掴みどころがないもの)と思ひがちだが、これも逆かも知れない。昼間の起きてゐる時がリアルで、夜に見る夢の世界はバーチャルといふ常識も疑はしくなる。さらには、この世とあの世の関係も同様に要検討です。
かういふことを考へていくと、この世が仮想に満ちてゐるのは別に不思議なことでもないといふ気がしてきます。それなら、私の意識はどこに向けるべきか。
この世には私の知らない陰謀がいろいろあつて、一部の誰かが不当に利益を得、私は割を食つてゐる。さういふ観念は一旦バーチャルに分類しておき、私の心が何に満たされて今日を生きてゐるかをリアルと考へる。
「私は喜んで生きてゐるのか」
「私は自分が正しいと思ふ生き方をしてゐるのか」
「私の魂は日々成長してゐるのか」
これらが私にとつて、かなり Ultimate Reality(真善美)に近いものです。

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