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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「ふと」の謎

2021/08/07
瞑想三昧 0
キリスト教 仏教 文鮮明先生
ふとの謎

「ふと思ふ」といふことが、日常生活の中で結構しばしばあるものです。思ひもかけない考へやアイデアが、どこからともなくふと湧いてくるといふ体験です。

私の体験では、例へば昨年の早春3月の初め、朝方愛犬を連れて散歩をしてゐると、ウグイスの鳴き声が聞こえる。「もうすぐ春だなあ」と思つてゐると、今までなら「ホー、ホケキョ」と聞こえてゐたのに、その朝に限つて「ジューイチジョ―」と聞こえる。

ホー、ホケキョ(法、法華経)」なら仏教だが、「ジューイチジョー(十一条)」はユダヤキリスト教の伝統です。

あるいは、この6月、いよいよ東京五輪は開かれさうだなと考へてゐると、
「池江(璃花子)さんは白血病になるまで『我泳ぐ、ゆゑに我あり』の人だつたな」
といふ思ひが、ふと浮かんできたことがある。

もう一つ、人間関係がうまくいかずに悩んでゐるとき、良心はこれをどう見るだらうかと思つてゐると、トイレでふと、
可哀さうだ
といふ声が聞こえてきたことがある。

この湧いてくるときの感じが、まさに「ふと」なのです。かういふ「思ひもかけない思ひ」は、一体どこから湧いてくるのだらう。少なくとも、自分の頭で論理的に考へて出てくるのでないことは分かる。

体験を振り返つてみると、思考の流れが何とはなしに緩んだとき、その間隙を突くやうにして「ふと」出てくるやうな気がします。

例へば、朝目が覚めてからの数分間。まだ頭が行動モードになつてゐないわづかな時間に、なかば夢の延長のやうなイメージやアイデアが数珠つなぎで湧いてくることがある。

かういふものは、今日の予定を頭で考へ始めるや否や、ピタリと停止する。あるいは、テレビやネットから流れる最新ニュースを聞き始めた途端、消えてしまふ。

さうすると、「ふと」出てくる思ひといふのは、自分の内面から流れる内的ニュースだと言つてもいゝやうな気がする。そのニュースは自分の中から出て来ながらも、自分が見つけたニュースではない。自分ならざる何者かが教へてくれる貴重な情報です。

どのやうな機序でかういふ情報が届くのか。届くといふ体験は疑ひないが、それを説明しようとすると難しい。それで古来、体験者が苦心して自分の言葉でそれを何とか伝へようとしてきたのです。

仏教ではそれを「無我の境地」とも表現する。それと似てゐるが、文鮮明先生は「ゼロ点基準」と言はれる。

どんなものかと言ふと、
「ありながらも、ないやうであり、ないながらも、あるやうな位置」
だといふ。ほとんど説明になつてゐない。それほど言葉には限界があるといふことでせう。

また、
心門を開く
とも表現されます。

心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。
(『地上生活と霊界』第3章「霊界」)

これも分かりにくい説明です。イメージとしては、私の心門が無限世界にぴたりと一致すれば、そのとき無限の情報がその門を通つて流れ込む。

私の体験は、とても「ぴたりと一致」とまではいかない。贔屓目に見ても、わづかに掠めたといふ程度でせう。さうではあつても、人間生活において、「ふと」はやはり、とても貴重な要素に違ひない。

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なるほど、小林秀雄2

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