春がいゝなあと思つたら、桜が咲く
20年前に妻が聖和してから、ときどき
「これは今、この世なのか、あの世なのか」
と思ふことがあつた。
天気の良い日。明るい日差しが眩しい。そんなとき、
「この日の光は、この世なのか、それともあの世なのか」
どちらともはつきり分からなくなるのです。
また、洗面所で蛇口から水を流しながら、
「今私はこの世で顔を洗つてゐるのか、それともあの世で洗つてゐるのか」
と判別がつかない気持ちになる。
人と話してゐても、
「今私たちはこの世で話してゐるのか、それともあの世の会話なのか」
と、どつちでもおかしくないやうな感じになる。
それでもしばらくすると、
「まあ多分、この世だらうな」
といふ常識的な(?)判断に落ち着くのです。
この世のありやうについてはだいぶ経験があるから、
「今、この世に生きてゐる」
といふ感覚は分かるやうな気がする。
しかしあの世には行つたことがない。行つたことのないあの世に、なぜゐるやうな感覚になるのだらう。
これは何も特別な「霊的体験」のやうなものではないと、自分では思ふ。「それは錯覚でせう」と言はれれば、反論ができないくらゐの、かなり曖昧なものではある。
しかし考へてみると、あの世はこの世とさほどに違つてゐるはずはなからうと思ふのです。なぜさう思ふか。もしもあの世がこの世とまつたく違つた世界ならば、我々がこの世で体験したことがあの世で生かせない。それなら、この世の体験に意味がないことになる。
陽の光に当たれば暖かくて、陽光は優しいなあと思ふ。水で顔を洗へば、ひやりとして気持ちがいゝ。人と心が通じれば、何とも言へない悦びを感じる。
かういふ体験の積み重ねが、謂はば「私」を形成するのです。ところが、あの世がまつたく違ふ世界であつたら、せつかく形成した「私」がそこではまつたく役に立たないことになる。
だから、あの世にも温かくて優しい陽光があり、ひやりと冷たい水があるはずだ。さうでなくては、おかしい。
さう考へれば、今太陽の光で暖かさを感じてゐることがこの世であつてもあの世であつても、別に構わないのではないか。さう思へてきませんか。
ただ、2つの世界でだいぶ違つてゐる面もある。その代表が、時間と空間です。
この世はその枠組みの中にゐるから、時間的にも空間的にも制約を受ける。しかしあの世ではこの制約がほぼ外れるやうです。
だから、歳をとるといふ感覚がない。会ひたいと思へば、瞬時にその人のところへ移動してゐる。春がいゝなあと思へば、桜の花が咲くし、秋の趣きを味はひたいと思ふと、全山が紅葉に変はる。
スウェーデンボルグに代表されるいろいろな霊界通信を読んでみると、そんな描写が共通して出てきます。
さて、この世とあの世がそんなふうだとすると、この世の体験を通して、どんな「私」を形成し、準備すればいいのか。「世界の中の私」と「私の中の世界」といふ表現で考へてみます。
この世もあの世も本当は「私の中の世界」です。ところが、この世で生きている間は「世界の中の私」といふ肉体の感覚が大勢を占める。それに対してあの世は感覚的にも「私の中の世界」なのです。
一例を挙げませう。
この世では、春にならないと桜は咲かない。1年に1回、その季節を待つしかない。これが「世界の中の私」です。
それに対してあの世では、「春がいゝなあ」と思へば「桜が咲く」。私の心に季節が応じる。これが「私の中の世界」です。
さうすると、私はこの世の人生で「世界の中の私」から出発しながらも、次第に「私の中の世界」を創つていく。それがこの世で形成していくべき「私」の姿ではないかと思へます。
もちろん、今ここで「春がいゝなあ」といくら思つても春にはならず、桜も咲かない。それはさすがに無理なのですが、それでも「私の中の世界」を徐々に創つていくことはできます。どういふことか。
目の前に、私に合はない人がゐるとします。私と考へ方が違つて、いつも意見がかみ合はない。私の意見を否定してくるし、妨害さへしてくるやうに思へる。どうしたつて、私にはその人を変へることはできさうにない。
これが「世界の中の私」の姿です。
しかしその「私に合はない人」は、本当は「私の中の世界」にゐるのです。「私に合はない人」が実際にゐるのではなく、私が「私の中の世界」に「私に合はない人」を作つてゐる。自分で作つておいて、自分で葛藤してゐるのです。
どうすれば「私に合はない人」はゐなくなるか。「私の中の世界」で「私に合ふ人」に変へればいゝ。あるいは、「合はない人が気にならない私」になればいゝ。「私の中の世界」での作業ですから、私がその気になりさへすれば可能です。
尤も、これは言ふほど簡単ではない。「私」が「変へられない」とか「変へたくない」と思つてゐるうちは、「私の中の世界」には何の変化も起きません。
それにもし変化を起こせたとしても、「世界の中の私」に住んでゐる大勢の人たちから見れば、馬鹿げた話に思へるでせう。
「いくら心の中で思つたとしても、実際のその人はちつとも変はらないぢやないか」
と思われてしまふ。
しかし我々誰もが最後に行き着く世界は
「春がいゝなあと思つたら、桜が咲く」
といふ世界なのです。
それを本当に可能にし得る「私」を、この世にゐる間から形成し準備しておくに如くはないでせう。

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