「解釈」してから「見る」
私が何かを見るとは、どういふことか。それについて考えてみようと思ひます。
例へば、外に出て遠くを眺めると山が見える。山のところどころは霧がかかつて霞んでゐる。今は雨が降つてゐないが、山の上には灰色の雨雲が垂れ込めてゐる。
この景色をデジタルカメラで撮つたとします。すると液晶画面には、目で見たとほぼ同じに見える画像が映る。
ところが、この画像は何かと言ふと、小さな画素の集まりです。山も霧も雲もそのやうな名前で呼ばれるものではなく、色の違ふ画素がそれなりに並んでできる画像に過ぎない。だから、デジタルカメラ自体はレンズを通して画像を結びながら、「これは山、これは雲」などとは思つてゐない。(当たり前です)
我々の目を通して入つてきた光が網膜に像を結ぶのも、原理的にはこれと同じでせう。ところが、我々はその単なる光が織りなす画像だつたものを、「これは山、これは雲」と識別して見てゐる。これはどういふことなのか。
目の前に広がるものの中で、この一部は山であり、この一部は雲であると解釈してゐる何かが私の中にある。その解釈に従つて「山」を見、「雲」を見てゐるのです。その何かを「無意識」と呼んでもいゝと思ふ。
つまり、無意識が「これは山です」と解釈したものを意識に見せてゐる。だから意識は「これは山だ」と思つてみる。「山だ」とか「雲だ」とか分かるといふことは、すでに無意識が解釈した後のものを意識が見てゐるといふことです。
逆に言へば、無意識が「これは山」と解釈してくれなければ、我々は山を見ることはできない。山を見て「これは山だ」と解釈してゐるのではなく、「これは山だ」と解釈した後で、山を見てゐる。そのやうに無意識によつて設定されたものを見ながら、「霧に霞む山は幻想的だなあ」などと思ふのが意識です。
こんな話は多くの人にとつて、ただ理屈つぽくてつまらない話だと思ふ。つまらなさうな話をなぜするか。山や雲を見るときだけではない。世の中の事象や人間を見るときにも、これの応用原理が働いてゐると思ふからです。
例へば、ある政治家が一つの出来事や問題について、かういふ発言をした。それを我々はどういうふふうに見てゐるか。
ふつうには、その事象を「見て」から「解釈」してゐると思つてゐる。ところが真実は反対で、「解釈」してから「見て」ゐるのではないか。
その「解釈」は誰がしてゐるか。無意識がしてゐるのです。
「あの政治家は、あゝいふ発言をするやうな人物だ」
といふ「解釈」が無意識の中にある。
そしてその「解釈」に沿つた発言が出てくると、
「それ見たことか。思つてゐた通りだ」
と意識がその発言を特に目敏く見つけて納得するのです。
この原理は、もちろん政治家に限らない。むしろ、身近で付き合ひの長い間柄であればあるほど、無意識の「解釈」は強力です。
「妻はかういふ人だ」
「夫はかういふ人だ」
「隣の○○さんはかういふ人だ」
こんな「解釈」が岩のやうに頑として居座つてゐる。そして意識はその「解釈」に沿つていつも相手を見てしまふ、といふか、「解釈」の通りに見たいと思ふのです。だからその「解釈」に沿はないものは目に入らない。
この「解釈」が変はらない限り、私の「見る」世界は変はらない。ところが、変へようとするとき難しいのは、この「解釈」が無意識の働きによるものだからです。
意識はその情報量において、無意識にはまるで敵はない。しかしどうしても、無意識の変革に取り組まねばなりません。

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