「幸福」と「幸福な心」
誰でもみな例外なく「幸福」を求めてゐることは、間違ひない。ただ、その求め方は千差万別で人によつて異なる。それらを『原理講論』では大きく2つに分類してゐます。
一つは、物質的結果的な現象世界に「幸福」を求めようとする方法であり、もう一つが霊的原因的な本質世界に「幸福」を求めようとする方法です。
前者の人たちは、極度に発達した科学を頼りとし、その万能と物質的な「幸福」を誇りとしてゐる。一方後者の人たちは、宗教を興してより心霊的な世界に入り、物質よりも心の悦びを追求した。
どちらも「幸福」を求めてゐるといふ点においては同じなのです。しかし、人間は肉体を持つと同時に霊的な存在でもあるので、どちらか一方の「幸福」では完全に満たされることがない。
ここで私は、前者の人たちが求めてゐるものを「幸福」と呼び、後者の人たちが求めてゐるものを「幸福な心」と呼んで、区別してみようと思ひます。
前者の人たちは、「幸福」が自分の外側にあると考へてゐる。だから、今手元にあるものに加へてより新しいもの、より多くのものを手に入れようとする。所有物の多寡が「幸福」の度合いを左右すると考へるのです。
かういふ人たちは、前回の記事「心の中に伽藍を建てる」の流れで言へば、マキシマリストです。できるだけ多く、限界まで多く持たうとする。この欲望が経済活動を活性化させ、科学を発達させる原動力になつたことは確かでせう。
それに対して、心霊的本質世界に分け入つた人たちはミニマリストです。持ち物はできるだけ少なくし、可能ならば結婚もせず家庭も持たず、ひたすら何を求めたか。それが「幸福な心」であつた。
「幸福な心」とは何か。自分が今何を持つてゐるか、どんな状況にあるかに拘らず、「私は今幸福である」と感じる心です。その心さへ手に入れば、自分はいつでもどこでも「幸福」であることが可能になります。
これまで後者の道を自ら実践し、また人々に教へてきた代表者は宗教者であつた。ところが今や、その道にミニマリストたちが参入し始め、「幸福」ではなく「幸福な心」を掴まうとしてゐる。
『年収90万円で東京ハッピーライフ』(大原扁理)を読みながら、私はそんな気がしたのです。
マキシマリストが主流で、彼らの成功や冨がもてはやされる世の中では、ミニマリストの評価は高くない。ミニマリストにはこれと言つた目的も夢もなく、何かを成し遂げよう、世の中を変へようといつた野心もない。
世の中でさしたる価値を生み出すやうには見えず、大きな野心もないから目立ちもしない。収入が少ないから納める税金も微々たるもの。こんな生き方は本人の勝手ではあるが、かういふ非生産的な人たちがあんまりたくさんゐては社会が成り立たない。
マキシマリストの目から見れば取るに足りない敗者のやうに見えるミニマリスト。ところがどつこい、彼らは人目につかない所でひつそりと、しかし真摯に「心と体のチューニング」を実践してゐるのです。
例へば、大原さんはこんなふうに書いてゐる。
心と体のバランスは、いつもいつでも自省と微調整が必要なもので、社会と距離を置いたからって、上達したり、熟練したりすることはないというのは発見でした。 |
具体的な微調整の手法はどんなものでせうか。
何もしない。何も考へない。何も知らうとしない。何にも応へようとしない。さういふ時間を30分でもいゝから毎日持つこと。一言で言へば、ボーッとして過ごすことです。
現代の生活なら、テレビを消す。スマホを脇に置く。さうして、自然の中(広告や看板などの情報が少ない所)を散歩する。部屋の床に大の字になつて、雨音を聴く。
こんなふうにすると、人間、自分と向き合ふしかなくなるのです。大原さんは何も考へないでゐると、ときどき自分と世界の境界がなくなつていくやうに感じるときがあるといふ。自分がここにゐるやうな、ゐないやうな、不思議な感覚です。
何も聞こえない。時間の感覚も場所の感覚もなくなる。すると、今まで心にかかつてゐたいろんなことが、いゝ意味でどうでもよくなる。宇宙の塵みたいに、大したことではないやうに感じられてくるのです。
かういふのは宗教家風の修行ではないが、立派に霊的原因的な本質世界に侵入した境地だと思ふ。「幸福」の追求から離れて、「幸福な心」を掴み得る境地です。
すべてのミニマリストがそんなふうだとは思へない。それでも、外の世界にばかり「幸福」を求めることの限界を何となく感じて、目の向きを180度変へてみようといふ心の変化。それを誰よりも敏感に感じてゐるのがこのミニマリストではなからうか。そんな気がするのです。

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