白紙の巻物が何の足しになるか
「これを聴け!」と孫悟空は言った。 「われわれがさんざん苦労して中国からここまでやって来て、おまけにわれわれに経巻を与えるようにとあんたが言いつけておいたというのに、阿難(アナン)と迦葉(カショウ)はまがいものをよこした。何も書いてない巻物をよこしたのだ。お訊きするが、そんなものがわれわれにとって何の足しになるのか」 (『西遊記』) |
中国の有名な白話小説『西遊記』。艱難辛苦の果てにやつと辿り着いた天竺で、三蔵法師一行は念願の経典を拝受する。ところが開いてみると、文字は一つも書いてない、白紙であつた。そこで孫悟空がお釈迦様に不平を鳴らす。その場面が上の箇所です。
それに対して、お釈迦様は笑顔でかう答へる。
何もそうどなることはあるまい。実のところ、こういう何も書いてない巻物こそが真のお経なのだ。だが、中国の人たちがあまりに愚かで無知であるために、このことを信じられずにいるのがわたしにはわかるので、中国の人たちには何か文字が書いてある巻物を与えてやるほかないということなのさ」 (同上) |
さう言つて新たに字のある経典を授けるのです。
「何も書いてない巻物こそが真のお経なのだ」
とは、どういふことでせうか。
聖書に、かういふイエス様の言葉があります。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 (「ヨハネによる福音書5:39) |
あるいは、次のやうな慧能(中国の禅師638-713)の言葉。
「真」をありのままにしておけば、そこに偽りのものはない。それは「心」そのものだから。「心」そのものが偽りのものから離れないかぎり、「真」なるものはいずこにも無い。いかなる所にも「真」は見出せないのだから。 (『永遠の哲学』オルダス・ハクスレー) |
我々は往々にして、言葉の中に「真理」を探さうとする。私もさういふタイプの人間です。『原理講論』を100回以上通読してみたこともあります。
しかし端的に言つて、言葉の中に「真理」はない。それなら、どこにあるか。どこにでもあるのです。
慧能の言葉「真をありのままにしておけば、そこに偽りのものはない」とは、「そこに真はある」といふことでせう。
言葉に限らず、我々は「真理」がどこか私の外にあると思つてゐる。しかしもし、私の外のどこかにあるとしても、私の「心」が偽りから離れなければ、「真理」をそこに見出すことはできないのです。
言ひ方を換へれば、「心」に「真理」がなければ、その「心」に「真理」は映らない。逆に、「心」に「真理」がありさへすれば、その「心」はどんなところにも、どんなものにも「真理」を見出すことができる。実際には「心」に「真理」がないので、どこか他のところに「真理」を無闇に探すわけです。
さうすると、我々は自分の外に「真理」を探す求道者ではなく、自分の「心」の中に「真理」を探す求道者、あるいは、自分自身が「真理」にならうとする求道者にならねばならない。さういふことになります。
「真」が仏陀によって説かれたことは一度もなかった。「真」は自分の内に実現させなくてはならないものだと分かっていたからである。 (『大荘厳論経』) |
遠くへ旅すればするほど、知ることがますます少なくなる。 (『荘子』) |

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