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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

あの世はどこにあるのだらう

2021/07/03
永遠に生きる 0
仏教 キリスト教
あの世はどこに

「この世」「あの世」といふ言葉があります。「あの世」は「死後の世界」とも呼ばれたりします。

「あの世」は「この世」で生きた人が、死んでから行く世界。「この世」は空間と時間に制約されるのに対して、「あの世」は空間を超越した永遠の世界である。大体そんなふうに考へられてゐるでせう。

さて、それでは「あの世」は一体どこにあるのか。死んだ人は一体どこに行つてしまふのか。

愛する身近な人に先立たれた人の中には、
「その人のことを思つたら、その瞬間、私のそばにゐるのを感じる」
と言ふ人もゐます。

この「そば」とは、一体どこなのか。自分の体に対してどの辺りで、どれくらゐの距離なのか。厳密に考へようとすると、却つて曖昧な感じがして分からなくなります。

「あの世」と似てゐる「心」について、ちよつと考へてみませう。

心理学者のカール・ユングがインディアンを調査したとき、長老からかう言われたといふ。

「白人と我らには大きな違ひがある。お前らは『頭で考へる』と思つてゐるだらうが、我らは「胸(ハート)で考へる』と思つてゐる」

人によつては、「胃」で考へると主張する人もゐるし、皮膚全体で考へると言ふ人もゐます。

また、運動科学研究所所長の高岡英夫さんは
「身体には、身体意識の濃いところと薄いところがある」
と言ふ。

例へば、手は足よりも意識が濃い。足は尻よりも意識が濃い。同じ手の中でも、指先は甲よりも意識が濃い。

このやうな意識の濃さの差はなぜ生じるのか。手は足よりも、足は尻よりも、指先は手の甲よりも、精密な運動をする必要がある。その身体部分の能力をより充分に発言できるやうに、意識が濃くなつてゐると考へられるのです。

「心」も「意識」も多義的な言葉なので、ちよつと雑な使ひ方をします。

心は、非局所的に存在する

心はここにある、あそこにある、といふやうなものではなく、どこにでもある。無所不在、つまり偏在する。そして、意識の濃い所に心はより強く惹かれ、そこに集中する。

例へば、転んで掌を擦りむく。すると、その傷の部分に意識が濃くなり、そこに心が寄り添ふ。その傷を手当てし、痛みが薄らぐまで、心は気が気ではないのです。

それなのに、ふつうには
「心は、どこそこにあるだらう」
と、つい考へる。

なぜかといふと、「この世」のものはすべて「局所的」に存在する(と認識されてゐる)からです。例へば、目の前の林檎は今テーブルの上にあり、私から50㎝離れてゐる。夜空のあの星は地球から何億光年の距離にあると観測されてゐる。

このやうに、「この世」のものはすべて、特定の位置を有して存在してゐます。だから「心」についてもつい、「どこそこにある」と考へてしまふ。

「あの世」もこれと同じに思へます。

仏教では極楽浄土は、この世から十万億土離れた西方にある。キリスト教では最後の審判の後、信仰者は天国に引き上げられる。

そんなふうによく表現されます。なぜさうするかと言へば、「局所的」に表現しないと我々には「あの世」がとてもイメージしにくいからです。

しかし実は、「非局所的」に、つまりどこにでも、存在する。言ひ方を換へれば、「この世」と「あの世」は重ね合はせの状態で同時に存在してゐる。

だから、死んで「この世」から「あの世」に移つて行くといふ考へ方は、どうも訂正する必要がある。正確に言ふと、「この世」に生きてゐる間も「あの世」にゐて、死んで肉体が消滅すると「あの世」だけになつてしまふ。

「あの世の人がすぐそばに来ているやうな感じがする」
と言ふ場合、そのゐる場所は私の意識の最も濃いところなのです。

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異世界無双
▲ 私の息子にとっての処女作です。ネット小説投稿サイトで人気が出てファミ通文庫大賞の優秀賞を受賞し、想定もしてゐなかった文庫版出版が実現しました。私から見ると息子の才能は瓢箪から駒、鳶から鷹です。
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